ジョン・ロス(1790–1866年)は、約40年にわたりチェロキー国家の主席酋長を務めた人物である。チェロキー系とヨーロッパ系の血を引くロスは、州政府と連邦政府から強い圧力がかかる時代に、チェロキーの人々にとって最重要の政治指導者かつ外交官となった。彼は強制移住に反対し、米国の裁判所で法的手段を追求し、涙の道として知られる悲劇的な移送を通じて国家を導いたことで最もよく知られている。

幼少期と指導者への台頭

ロスはチェロキーの南東部の故地に生まれ、バイリンガルかつ二つの文化に通じて育ったため、通訳や交渉役として活躍できた。19世紀初頭にチェロキーの政治制度が発展する中で、彼は国家の成文憲法の整備に関わり、1828年に主席酋長に選出された。彼の指導は、伝統的なチェロキーの価値観と、アメリカの法と外交への理解を結びつけたものだった。

法的・政治的抵抗

ロスは、連邦のインディアン移住法などの移住政策に対し、請願、ワシントンへの代表団派遣、訴訟を通じて粘り強く反対した。彼の指導のもと、チェロキーは米国の裁判所で訴訟を進め、1830年代初頭には部族の主権に影響を与える判断をもたらした事件もあった。いくつかの場面では有利な判決が得られたものの、州政府からの圧力と、1835年に少数派のチェロキーが結んだ条約によって、移住に反対していた多数派も強制移住を余儀なくされた。

移住、再建、南北戦争

ロスは1835年のニューエコタ条約に激しく抗議し、その条件を受け入れなかったが、最終的には1838年から1839年にかけて何千人ものチェロキーの人々が強制的に移送された。インディアン準州への再定住後、ロスはチェロキー政府、学校、法制度の再建に取り組んだ。南北戦争の間、国家は内部で分裂し、ロスは連邦派と南軍派の双方からの圧力の中で、統一の維持とチェロキーの利益保護に苦心した。

遺産と特筆すべき点

  • ロスは1828年から1866年の死去まで主席酋長を務め、チェロキー史上でも最も長く影響力の大きい指導者の一人となった。
  • 彼は少数派が交渉した1835年の条約を退け、それがチェロキー全体の意思を代表していないと主張した。
  • ロスの外交努力には、大統領や議会に承認と救済を求めるため、ワシントンへのたび重なる訪問が含まれていた。

ジョン・ロスは、チェロキー史の中心的人物として今も位置づけられている。彼の経歴は、強大な州政府と連邦政府の力を前にしたとき、法的・政治的抵抗の限界を示す一方で、彼の努力が移住と戦争の中でもチェロキーの制度を守る助けとなったことを物語る。移住につながった政策の背景については、インディアン移住法も参照されたい。