英語の聖書には多くの翻訳があります。その背景には、原典(原稿)と考えられるものが何か、どの写本群を基に翻訳するかについて学者間で意見が一致しないことがあります。ギリシャ語やラテン語、ヘブライ語の聖書本文には複数の版・写本伝統があり、翻訳者はそれらを選び取って英語(や他の言語)に移し替えます。結果として、英語の聖書にも多くのバージョンが生まれます。
原典(原稿)問題:どれが「原文」か?
「原典」とは通常、翻訳の土台となる原語のテキストを指しますが、聖書の場合は単一の「正本」が存在するわけではありません。主な論点は次の通りです。
- 旧約聖書の本文:ユダヤ教のヘブライ語正典(マソラ本文)や、古代ギリシャ語訳の七十人訳(セプトゥアギンタ)が存在します。死海文書の発見は旧約の本文の多様性を示しました。
- 新約聖書の本文:多数のギリシャ語写本があり、代表的な写本としてコデックス・シナイティクスやコデックス・ヴァチカヌスなどがあります。近代の学術版としては、Nestle–Aland(NA)やUnited Bible Societies(UBS)などの批評テキスト(critical text)が用いられることが多いです。一方、伝統的に用いられてきたTextus Receptus(TR)や多数派本文(Majority Text)を重視する立場もあります。
- ラテン語文本:カトリック圏ではラテン語のウルガータ(Vulgate)を根拠にした翻訳伝統があります。
このようにどの本文を基にするかの違いが、訳文の違いを生みます。学術的な翻訳では、本文に関する注記や代替読み(読みの違い)の表示がされることが多く、比較することで原典に近い意味を探る助けになります。
翻訳の方式:直訳(形式的等価)と意訳(動的等価)
翻訳の方法には大きく分けて二つの方向性があります。どちらも一長一短で、利用目的によって適する翻訳が変わります。
- 直訳(形式的等価、word-for-word)
- 原語の語順や語形・語彙にできるだけ忠実に訳す方式。
- 学術的な研究や原語に近いニュアンスを知りたい場合に有利。
- 短所として、英語として読みにくくなる場合があり、固有名詞や句の意味を直訳すると誤解を招くことがある。
- 代表例(一般にこの分類に入るもの):KJV(キングジェームズ版)、NASB、ESV など(訳出方針は版によって差があります)。
- 意訳(動的等価、thought-for-thought/meaning-based)
- 原語の「意味」を英語で自然に伝えることを重視する方式。Eugene Nida が「動的等価性(dynamic equivalence)」という用語を提唱しました。
- 読みやすさと現代語での理解を優先するため、元の語順や語句を必ずしも逐語的に再現しない。
- 短所として、翻訳者の解釈が入りやすく、場合によっては原意からずれるリスクがある。
- 代表例:NIV(新国際版)、NLT(新生訳)など。さらに強く言い換えるパラフレーズ(例:The Message)もあります。
長所・短所をまとめると
- 直訳(形式的等価):原語の構造や語彙に近く、細部の分析に向く。しかし文章が硬く、現代の読者には理解しづらいことがある。
- 意訳(動的等価):読みやすく、意味が伝わりやすい。日常の読書や説教、入門的理解に向く。ただし翻訳者の判断が強く反映されやすい。
翻訳を選ぶときの実用的なヒント
- 目的を考える:学術的・逐語的分析が目的なら形式的等価寄りの訳、日常の読解や説教の準備なら動的等価寄りの訳が向きます。
- 複数の訳を参照する:重要な個所は複数訳を比較すると、訳者の解釈や凡例が見えてくる。
- 注釈と本文資料を見る:本文の異読や訳注に目を通すと「なぜその訳になったか」が分かる。
- 原語に当たれるなら当たる:可能ならヘブライ語・ギリシャ語の原文や語彙辞典を参照するのが最も確実。
- 翻訳委員会や訳者の方針を見る:どの本文を根拠にしているか(NA/UBS、TR、マソラ、Vulgate など)、訳の原則(意訳重視か逐語重視か)を確認する。
補足:訳語や文化的背景の問題
単語ひとつにも文化的・歴史的な背景があり、現代語に直すと意味が弱まったり変わったりします。例えばメタファーや宗教的用語、社会構造に関する語は、単純な語の置換だけでは伝わらないことがあるため、訳者は注釈で補足することが多いです。
結論として、どの翻訳にも長所と短所があり、「これが唯一正しい翻訳」ということはありません。研究目的や読みたい用途に応じて複数の訳を使い分け、注釈や翻訳方針を確認するのが賢明です。

