広島・長崎への原爆投下(1945)|背景・経緯・影響をわかりやすく解説
広島・長崎への原爆投下(1945)の背景・経緯・被害とその後の影響をわかりやすく解説。歴史的事実と論点を短時間で学べる入門ガイド。
広島・長崎への原爆投下(1945)は、第二次世界大戦(第二次世界大戦)末期にアメリカ軍が日本本土に対して行った核攻撃です。アメリカが主導した連合国側は、太平洋戦線で次第に優位に立っており、1945年夏に二つの核兵器が日本の都市に投下されました。1つ目は1945年8月6日に広島市に、2つ目は8月9日に長崎市に投下されました。長崎への投下は当初の第一標的であった小倉(現在の北九州市)上空が天候不良で視認できなかったために、当日の第二標的である長崎に向かった経緯があります。最終的にこれらの攻撃はハリー・トルーマン大統領の指示の下で実行されました。
背景:開発と戦局
投下に先立ってアメリカはマンハッタン計画で核兵器の開発を進め、二種類の原子爆弾を完成させました。広島に投下された「リトルボーイ」はウラン235を用いたガンタイプの爆弾、長崎に投下された「ファットマン」はプルトニウムを用いたインプロージョン型の爆弾です。これらは従来の航空爆撃とは比べ物にならない破壊力と被害をもたらしました。投下直後の即死被害に加え、放射線障害による短期的・長期的な健康被害が多く発生しました。
投下の経緯と軍事的状況
1945年の夏、連合国は日本本土侵攻(いわゆる“オペレーション・ダウンフォール”)準備を進めていましたが、予想される上陸作戦による米軍側・日本側双方の犠牲者見積もりが非常に高いことが示されていました。アメリカ政府は原爆使用による戦争終結の早期化や人的犠牲の抑制を期待したとされていますが、その是非は現在も歴史学者や政策論者の間で活発に議論されています。原爆投下の直前、1945年8月8日〜9日にはソ連が満州国侵攻を開始しており、これも日本の降伏決断に影響を与えた要因の一つと考えられています。
被害の実態
広島と長崎の被害は即死・焼死、建物の倒壊、熱線、そして放射線障害による疾患といった複合的なものでした。推定死者数は資料によって幅がありますが、主要な推計では1945年末までに広島で約14万人、長崎で約7万〜8万人程度が死亡したとされています(ただし集計方法や含まれる対象が資料ごとに異なるため数値は一致しません)。さらにその後の放射線被曝に起因するがんや白血病の発生、慢性的な健康被害、被爆者(被爆者(ひばくしゃ))の社会的差別や心的外傷などが長期にわたって続きました。
一部の資料や当時の報告は、軍関係者や労働者をどの程度死者に含めるかで割合が変わるため、例えば「広島の死者のうち戦闘員や強制労働者の割合が高かった」とする主張もありますが、こうした数字は分類基準や資料の限界により解釈が分かれ、単純比較は困難です。
戦後の影響と国際的反応
原爆投下は核時代の始まりを告げ、戦後の国際政治や軍事戦略、核兵器管理(軍縮・不拡散)に大きな影響を与えました。1945年8月15日の天皇の玉音放送を経て日本は事実上降伏し、9月2日に正式に降伏文書に署名して太平洋戦争と第二次世界大戦が終結しました。
被爆の惨状は戦後の平和運動や反核運動を生み、広島・長崎は核兵器廃絶の象徴となりました。国際的には核兵器の倫理・法的側面、戦争犯罪や無差別攻撃に関する論争も続いています。なお、戦後一度も核兵器が実戦で使用された例はありません(1945年8月9日以降、戦闘での使用はなし)。
議論点:必要性と代替案
原爆投下が「侵略(上陸作戦)を回避して多くの命を救った」と評価する立場と、「投下は不要であり政治的・外交的手段や示威によって同様の結果が得られた可能性がある」とする立場があります。賛否両論の主な争点は次の通りです。
- 米軍側の上陸作戦による犠牲推計の妥当性
- ソ連参戦や天皇の意向といった外交的圧力が既に日本の降伏を促していたかどうか
- 原爆の軍事的・政治的目的(戦争終結の早期化、ソ連への牽制など)と倫理的帰結
- 市民に対する影響の度合いと国際法的評価
これらの点は研究者や元軍人、政治家の間で今も議論が続いています。
日本の戦後政策:非核三原則
原爆投下と被爆の記憶は日本の戦後政策にも影響を与えました。戦後長く反核感情が強まる中で、1967年に佐藤栄作内閣が唱えた「非核三原則(核を作らず、持たず、持ち込ませず)」が有名です。これは日本政府の基本方針として定着しましたが、法律による拘束力を持つ立法ではなく、政策上の原則として維持されています。
最後に
広島・長崎への原爆投下は、短期的な軍事決断と長期的な人道的影響が交錯する出来事であり、その評価は単純ではありません。被爆者の個別の証言や被害の記録、外交史・軍事史の研究を通じて、歴史的事実とその教訓を多面的に理解することが重要です。

長崎上空での核爆発によるファットマンのキノコ雲は、爆心地から18km上空に上昇しています。

リトルボーイ投下後の広島のきのこ雲
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質問と回答
Q:2つの核兵器は何と呼ばれていたのですか?
A:最初の爆弾はリトルボーイと呼ばれ、広島に投下される予定でした。2番目の爆弾はファットマンと呼ばれ、長崎に投下される予定でした。
Q: 日本が正式に降伏したのはいつですか?
A: 日本が連合国に正式に降伏したのは1945年8月15日、長崎上空での爆発から6日後です。降伏文書にサインしたのは9月2日です。
Q: 日本が降伏した原因は何ですか?
A: 日本が降伏したのは、資源や戦力の不足、広島と長崎への原爆投下など、さまざまな要因が重なったからです。さらに、ソ連の満州国侵攻に直面し、第二次世界大戦における日本の立場はさらに弱くなりました。
Q: なぜ広島と長崎が原爆投下に選ばれたのですか?
A: 広島と長崎が選ばれたのにはいくつかの理由があります。まず、両市とも河川の三角州のため、火炎放射があまり効果的でなく、原爆投下には不向きだったこと。第二に、両都市とも核爆弾の被害を測定するのに適した地域があったこと。広島には第2軍の司令部があり、4万人の日本兵が駐留していた。一方、長崎には三菱の大規模な兵器工場が2つあり、日本の戦争マシンに不可欠な戦争部品を提供していた。
Q: 第二次世界大戦が始まる前に、原爆について手紙を書いたのは誰ですか?
A: アルバート・アインシュタインという科学者が1939年8月2日に原子爆弾についての手紙を書きましたが、後に「原子爆弾の製造を勧める手紙に署名したとき、私は人生で一つの大きな過ちを犯した」と述べています。
Q:東京大空襲の「ミーティングハウス焼夷弾作戦」では何人死んだのでしょうか?
A: 東京大空襲は一晩で10万人の民間人を殺し、16平方マイルを破壊しました。
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