イタリア統一イタリア語Unità d'Italia)とは、19世紀にイタリアの国家を統一した運動のことで、「Risorgimento(復活の意)」とも呼ばれる。1815年のウィーン会議に端を発する。1871年、ピエモンテの宰相カヴール伯とイタリアの国民的英雄ジュゼッペ・ガリバルディが南部を統一し、ローマがイタリア王国の首都となったことで幕を閉じた。これにより、ヴィクトール・エマニュエル王が初代イタリア国王となった。

背景と原因

ナポレオン戦争後のウィーン会議は、イタリア半島を複数の小国家や外国勢力の支配下に置いた。北はオーストリアの影響下にあるロンバルディア=ヴェネト、トスカーナや二つのシチリア王国などに分裂していた。こうした分裂状態に対し、近代的な民族意識(ナショナリズム)や自由主義思想が広まり、統一を求める声が強まっていった。

主要人物と運動の諸流派

カミッロ・カヴール(ピエモンテ=サルデーニャ王国の首相)は、現実主義的な外交と国内改革でイタリア統一を進めた。外国勢力との同盟(特にフランス帝国との接近)や近代的軍事・経済政策を通じて、王国の主導権を確立した。
ジュゼッペ・ガリバルディは、革命的・大衆的な手法で知られ、1860年の「千人隊の上陸」(千人隊の遠征)によって両シチリア王国を征服し、南部統合に大きく貢献した。
ジュゼッペ・マッツィーニは、青年イタリア(Giovine Italia)を組織し、共和主義と国民意識の醸成を図った。マッツィーニの思想は多くの青年や活動家に影響を与えたが、彼の共和主義はサヴォイア王朝の君主制と必ずしも一致しなかった。

主な出来事と年表

  • 1815年:ウィーン会議でイタリア分裂の現状が固定化。
  • 1848年:ヨーロッパ革命の波がイタリアにも及び、各地で反オーストリア・立憲運動が発生。多くは鎮圧されるが、統一運動の火は消えなかった。
  • 1858年:カヴールとフランスのナポレオン3世の非公式協議(プランビエール密約)により、オーストリアとの戦争でフランスの支援を得る見通しが立つ。
  • 1859年:オーストリア=サルデーニャ戦争(第二次イタリア独立戦争)。サルデーニャ側はフランスの援助で勝利し、ロンバルディアを獲得。
  • 1860年:ガリバルディの「千人隊」遠征により南イタリア(両シチリア王国)が陥落し、王政下での統一が進む。
  • 1861年:サヴォイア家ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が「イタリア王国」宣言(形式上の統一)。カヴールは同年没。
  • 1866年:普墺戦争の結果、イタリアはヴェネトを獲得(プロイセンの勝利によりオーストリアが譲渡)。
  • 1870年:普仏戦争によりフランスが教皇保護軍を撤退させると、ローマがイタリアに併合される。
  • 1871年:ローマが公式に首都となり、統一過程は事実上完了(ただし「ローマ問 題」は残る)。

統一後の課題と影響

統一は政治的・軍事的には成功を収めたが、南北の経済格差や土地問題、政治体制に対する不満など多くの課題を残した(いわゆる「南問題」)。また、ローマ教皇は領土の喪失を理由に長く王国を承認せず、「ローマ問題」はイタリアとバチカンの間で続いた。最終的に教皇とイタリア王国の関係は1929年のラテラノ条約で解決される。

意義

リソルジメントは、イタリアに近代国家と国民意識をもたらした重要な歴史的転換点である。国家統一はヨーロッパの力学にも影響を与え、19世紀後半の列強政治や民族運動の一端を担った。統一過程には議会政治と武力の双方が絡み、指導者間の戦術的妥協と大衆的運動が複雑に絡み合っていた点が特徴である。