サリエント、リエントとポケット

サリエントとは、敵陣に突出した戦場の特徴をいう。楯状地は3方を敵に囲まれている。そのため、サリエントを占拠している部隊は攻撃に対して脆弱となる。サリエントに面する敵のラインはリエントラント(内側に向いた角度)と呼ばれる。深いサリエントは、基部を横切る「挟み撃ち」に対して脆弱である。そうなれば、守備側は包囲されることになる。第二次世界大戦の「バルジの戦い」がそうであった。

要塞の場合、サリエントは防衛構造の外側に突き出た部分のことです。

  • アメリカ南北戦争のゲティスバーグの戦いで、北軍のダニエル・シクルス将軍は命令なしに第三軍団を北軍本隊より先に移動させた。このため、南軍の攻撃で本隊から切り離されそうになった。シクルスは2ヶ月前のチャンセラーズビルの戦いでもキャサリンズ・ファーネスで同じような位置を占めた。どちらの場合も彼の軍団はひどく打ちのめされ、他の部隊に救出されるしかなかった。
  • アメリカ南北戦争のスポティルバニアの戦いで、南軍は木材で補強された塹壕線を構築した。塹壕線は高台を保護するために前方に膨らんでいた。この曲線は、ミュール・シュー・サリエントとして知られるようになった。北軍はこの地点に攻撃を集中させた。22時間の白兵戦の後、彼らは突破した。南軍は新しい陣地に引き揚げた。
  • 第一次世界大戦で、イギリス軍は戦争のほとんどの期間、イーペルの大規模な塹壕を占拠していた。第一次イーペルの戦いの結果形成されたこの戦線は、西部戦線で最も血なまぐさい戦域の一つとなった。イギリス歩兵が「サリエント」といえば、イーペルのことだと理解されていた。
  • フランスの都市ヴェルダンにも同じような岬があった。このヴェルダンの戦いは、両軍に多大な犠牲を強いることになった。
  • また、第一次世界大戦では、ドイツ軍はフロメールの前にある小さな岬を占領した。その特徴的な形からシュガーローフと呼ばれた。
  • 第二次世界大戦で、ソ連はクルスクの深さ150kmの巨大な塹壕を占領した。ここは史上最大の戦車戦の舞台となり、東部戦線の決定的な戦いとなった。
  • 第二次世界大戦中、ドイツ軍はアルデンヌ地方で進攻する連合軍に対して奇襲攻撃を仕掛けた。バルジの戦い」(「アルデンヌ攻防戦」「フォンルントシュテット攻防戦」とも呼ばれる)と呼ばれる。

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