1939年のソ連のポーランド侵攻は、1939年9月17日に正式な宣戦布告なしで開始されたソ連の軍事作戦である。第二次世界大戦の初期段階で起こり、ナチスドイツが西からポーランドに侵攻した16日後にソ連が東から侵攻する形となった。ソ連の軍事行動は1939年10月6日に大部分で終了し、最終的にドイツとソ連は第二ポーランド共和国全体を分割した。

背景 — モロトフ=リッベントロップ協定と秘密議定書

1939年8月23日、ソ連とナチス・ドイツは表向きには不可侵条約(いわゆるモロトフ=リッベントロップ協定)に署名した。この協定には公的文言のほかに、北欧・東欧の勢力圏を分割する秘密議定書が含まれており、ポーランド領土の分割やバルト三国、ベッサラビアなどの勢力圏が取り決められていた。協定締結の直後、ドイツはポーランドに対する攻撃を開始し、ポーランド軍は多方面で包囲される形となって南東へ撤退していった。

侵攻の経過(1939年9月)

両国の合意を背景に、ソ連赤軍は1939年9月17日に国境を越えて東部ポーランドへ侵攻した。公式の理由としてソ連政府は、ウクライナ人とベラルーシ人をポーランド当局の「混乱」や「迫害」から守るための行動だと主張したが、実際には協定に基づく勢力圏の確保が目的であった。侵攻から間もなく、1939年9月28日にはドイツとソ連の間で国境線の調整を行う協定が結ばれ(ドイツ・ソ連境界友好条約)、最終的な分割線が画定された。

占領とソ連化政策

占領下での行政は急速にソ連方式へと置き換えられた。土地主義や私企業の国有化、共産党組織の導入、ポーランド軍・官僚・知識人・宗教指導者に対する逮捕・抑圧が行われた。1939年11月には、ソ連当局は新たに占領下に入った地域の約1350万人をソビエト連邦の市民と宣言した。さらに何十万もの住民がシベリアや中央アジアなどソ連の遠隔地へ強制移住・追放された(推定人数は資料により差があるが「数十万」とされる)。

また、占領行政は教育言語の変更や宗教活動の制限、私有財産の没収といった同化・弾圧政策を伴った。ポーランド将校や知識階級に対する拘束・処刑(後年の例として1940年のカティンの森事件など)も含め、占領はポーランド社会に重大な人的・社会的被害を与えた。

その後の戦局と戦後の帰結

ソ連軍は当初、1941年夏までポーランド東部に駐留していたが、1941年6月に発動されたドイツのバルバロッサ作戦の過程で侵攻してきたドイツ軍によってソ連軍は撤退・転戦を余儀なくされた。以後この地域はドイツの占領下に入り、1944年夏に赤軍が再び進攻してこれを奪回した。

戦後、ヤルタ会議での合意を経て、ポーランドの東西の国境は大きく変更され、ソビエト連邦は戦前ポーランド領のほぼ一部を恒久的に手に入れた。結果として、ポーランドは東プロイセン南部を含む一部のドイツ領(東プロイセンの南側など)を得て、国土は西へ移動した。ソ連はこれら占領地を最終的にウクライナ・ソビエト社会主義共和国とベラルーシ・ソビエト社会主義共和国に編入した。

影響と評価

  • 国際的評価:ソ連の侵攻は多くの国で侵略行為と見なされた。英仏は当初ドイツに対して宣戦布告したが、ソ連の行為に対しては直接的な軍事対応を取らなかった。
  • 人道的影響:住民の強制移住、逮捕、処刑、財産没収などにより、地元のポーランド人コミュニティは深刻な被害を受けた。これらの出来事は戦後にわたってポーランドとソ連(後のロシア)との関係に影を落とした。
  • 国境と民族構成の変化:戦後の国境変更と大規模な人口移動により、東欧の民族地図は大幅に書き換えられた。多くのポーランド人が西へ移住し、ウクライナ人・ベラルーシ人の多くはソ連側に残る形となった。

総じて、1939年のソ連のポーランド侵攻はモロトフ=リッベントロップ協定に基づく勢力圏の確保を目的とした軍事行動であり、ポーランド国家と市民に対して深刻な政治的・人道的影響を及ぼした。戦後処理により国境は固定され、東欧の政治地図は長期間にわたり変容した。