チステルナの戦いは、第二次世界大戦中の戦闘である。1944年1月30日から2月2日にかけて、イタリアのチステルナ(現在のチステルナ・ディ・ラティーナ)付近で起こった。アンツィオの戦い(「シングル作戦」)の一部であり、上陸後の前進を狙った米第6軍団(VI Corps)の試みの中核をなした。
この戦いは明らかにドイツの勝利であり、米陸軍レンジャー部隊に壊滅的な打撃を与えた。この戦闘の間、多くのUSレンジャー部隊が第3歩兵師団によるCisternaへの攻撃を支援するよう命じられ、1944年1月25日から27日にかけて続いていた同市攻略の再挑戦に投入された。第3師団の攻撃は、アメリカ第6軍団がアンツィオ海岸から移動するための大規模な攻勢の一部であり、新たなドイツ軍が到着して反撃を仕掛ける前に橋頭堡を拡大することが狙いであった。
背景と地形的条件
チステルナはローマ南方の要地で、アンツィオ橋頭堡から内陸へ伸びる道路網(アッピア街道方面)を押さえる拠点だった。周囲は干拓地(ポンティーネ平原)が広がり、排水溝や用水路、低い堤防、冬季のぬかるみが多く、歩兵・戦車ともに機動が難しい。視界を遮る霧が出やすい一方で、日中は遮蔽物に乏しく、待ち伏せ・包囲に適した地形だった。
参戦部隊と指揮系統
米側は、米第6軍団のもとに米第3歩兵師団(複数連隊)と米陸軍レンジャー部隊(第1・第3・第4レンジャー大隊を基幹)を集中。レンジャー部隊はダービー指揮下の精鋭で、夜間浸透・奇襲に長けていた。独側はアンツィオ方面に急派されたドイツ第14軍隷下の歩兵・装甲擲弾兵・降下猟兵部隊と戦車部隊がチステルナ周辺に布陣し、道路結節点を堅固に防御していた。
作戦計画
米軍は夜明け前の奇襲で主導権を握る構想を採用。レンジャー第1・第3大隊が夜間に敵線へ浸透し、チステルナ市街を電撃的に確保、続いて第3歩兵師団主力が白昼に装甲と砲兵の支援を受けて進出し、橋頭堡の外縁を押し広げる計画だった。第4レンジャー大隊や周辺歩兵連隊は側面掩護と増援任務を担った。
戦闘の経過
- 1月30日 未明~朝:濃霧に紛れレンジャーが排水溝や畦道を伝って浸透を開始。当初は敵警戒線を突破できたが、予定より早く独軍の前哨・機関銃座・対戦車火点と交戦。夜明けとともに独軍は装甲擲弾兵や戦車、迫撃砲・砲兵火力で反撃を強め、レンジャーの小隊・中隊単位の集団を次々と包囲した。
- 1月30日 午後~31日:レンジャー側は市街突入を試みたが、無線の寸断、地形障害、戦車支援の欠如が重なり、救出に向かった第4レンジャー大隊や第3歩兵師団の一部も激戦に巻き込まれた。独軍は戦車と自走砲で要所を封鎖し、浸透部隊を分断・拘束。
- 2月1~2日:第3歩兵師団は正面攻撃を継続するも、チステルナ周辺の防御は崩れず、損耗増大により攻勢は停滞。橋頭堡の拡張は失敗に終わった。
損害と評価
- レンジャー部隊の壊滅:浸透を担った第1・第3大隊は実質的に全滅。生還者はごく少数にとどまり、約700名規模が戦死・負傷・捕虜となったと広く伝えられている。救出を試みた部隊も相当の損害を被った。
- 米第3歩兵師団の損害:連日の正面攻撃で多数の死傷者が発生し、部隊は再編を余儀なくされた。
- ドイツ側:死傷者は出たものの要地を保持し、反撃態勢の整備に成功。戦術的勝利を収めた。
失敗要因には、独軍戦力の過小評価、上陸後の慎重な展開による時間的損失で敵が増強されたこと、地形と天候による機動・通信の制約、浸透部隊に対する装甲支援の不足、連携の乱れなどが挙げられる。
影響とその後
チステルナの敗北により、アンツィオ橋頭堡からの早期突破は頓挫し、戦線は膠着した。レンジャー部隊は再編を迫られ、以後イタリア戦線での運用はより慎重となる。戦術面では、軽歩兵による深い浸透は、適時の装甲・砲兵支援と確実な通信・誘導がなければ高いリスクを伴うという教訓が確認された。なお、チステルナ自体は翌5月、連合軍の総攻勢に伴う前進の中で最終的に奪取され、アンツィオ作戦全体はローマ解放(6月)へとつながっていく。
要点の整理
- 時期・場所:1944年1月30日~2月2日、アンツィオ橋頭堡東方のチステルナ周辺
- 位置づけ:アンツィオの戦いの一局面(「シングル作戦」直後の前進作戦)
- 米側の狙い:橋頭堡拡大と要地確保による機動の自由獲得
- 結果:ドイツの防御・反撃により米軍攻勢は失敗、米陸軍レンジャーが壊滅的損害
- 意義:アンツィオの膠着化を決定づけ、浸透戦術運用の限界と支援要件を浮き彫りにした

