ツタンカーメンは、古代エジプトのファラオで、少年で王位に就いたことで知られます。一般には在位は紀元前1330年代から紀元前1320年代とされ、通説では紀元前1332年頃に即位し紀元前1323年頃に若くして亡くなったとされています。新王国時代の第18王朝に属しますが、短い治世にもかかわらず後世で非常に有名になりました。

出自と家族

ツタンカーメンは一般に、父としてしばしば挙げられるのがアクエンアテンで、母ははっきりしていません。近年のDNA解析や人骨の研究では、母はアクエンアテンの近親にあたる女性(しばしば「若い女」と呼ばれるミイラ)であった可能性が指摘されています。本文オリジナルにもあるように、ツタンカーメンはアクエンアテンとその姉妹の一人、あるいは従兄弟の一人であるキヤの息子である、という説や諸説が存在します。

治世と宗教改革の撤回

ツタンカーメンは幼年で即位し、在位9年ほどで19歳前後の若さで亡くなったため「少年王」と呼ばれます。彼は在位3年目ごろに、父の時代に進められたアテン中心の宗教改革の多くを撤回しました。具体的には、アテン神一神崇拝から手を引き、伝統的な神格であるアメン神への崇拝を復活させました。アメンの神官階級は再び特権を回復し、首都は一時的に遷都されていたアケタテン(アテンを中心とした新都)から古都のテーベへ戻され、アケタテンの都市は放棄されました。

この頃、王は自らの名を「ツタンカーメン(Tutankhamun)」に改め、「アムンの生きた像」を意味する題号を用いてアメン神の復権を強調しました。王はまた、アンケセナムンという女性と結婚しており、彼女は継母であるネフェルティティの娘であったとされます。

墓の発見(1922年)と遺物

1922年、イギリス人考古学者ハワード・カーターが王家の谷でツタンカーメンの墓(KV62)を発見しました。発見には資金援助をしたのが第5代カーナヴォン卿(Lord Carnarvon)で、発掘の際の有名なやり取り(「何か見えますか?」「はい、実に驚くべきものです」)は考古学史に残るエピソードとして知られます。

ツタンカーメンの墓は規模自体はそれほど大きくありませんでしたが、内部は未盗掘に近い形で副葬品が残されており、黄金のマスク、黄金の棺、玉類、玉璽、戦車、家具、衣服、宗教用具など数千点に及ぶ遺物が見つかりました。これらの出土品はエジプト考古学にとって決定的な資料となり、以後の学術研究や一般のエジプト趣味(エジプトブーム)に大きな影響を与えました。多くの発見品はカイロの博物館やその後移管されたコレクション(新設の施設を含む)に収蔵されています。

死因と科学的研究

ツタンカーメンの早死を巡っては長年にわたり様々な仮説が出されてきました。かつては暗殺説や頭部への致命的な打撃といった説もありましたが、CTスキャンやDNA解析、病理学的検査により一定の見解が示されています。2010年に発表された包括的な研究では、彼は先天的な骨格の異常(近親婚に伴う可能性)や片足の障害(歩行困難を示す所見)、複数のマラリア感染の痕跡などが見つかり、最終的には外傷や骨折に伴う感染症とマラリアなどの合併症が致命的になった可能性があると示唆されました。

ただし、これらの結論には議論が残り、手法やサンプルの限界、DNA解析の解釈を巡る問題点などから異論や再評価も提起されています。現在でもツタンカーメンの正確な死因については完全な合意は得られていません。

「呪い」の伝説と現代の評価

墓の発見後、ツタンカーメンの墓には呪いがあるといった話が世間を賑わせました。特に、発掘の支援者であったカーナヴォン卿が1923年に死去したことがセンセーショナルに報道され、「呪い」のイメージが一人歩きしました。しかし、実際には墓を訪れた考古学者の多くはその後自然な死を遂げており、呪いの存在を示す科学的な証拠はありません。メディアの誇張や当時の世論の関心が「呪い伝説」を拡大した面が強いとされています。

遺産と影響

ツタンカーメン自身の政治的・軍事的業績は短い治世のため大きくはありませんが、彼の墓の発見は20世紀の考古学と一般文化に計り知れない影響を与えました。大量の副葬品は古代エジプトの工芸技術、宗教儀礼、葬制を知る上で重要な一次資料となり、エジプト学の発展や博物館展示、一般の関心を高める契機となりました。

このように、ツタンカーメンは生前の業績だけでなく、死後の遺物とその発見がもたらした学術的・文化的効果によって世界的な名声を得た王と言えます。