紀元89年(LXXXIX)―ユリウス暦の年と執政官・主な出来事一覧

紀元89年(LXXXIX)のユリウス暦と執政官、主要出来事を年表で詳解—古代ローマの歴史を一目で把握。

著者: Leandro Alegsa

89年(LXXXIX)は、ユリウス暦の木曜日から始まる通年(リンク先は全暦表示)である。当時は「フルブスとアトラティヌスの執政の年」(あるいは、より少ない頻度で842年Ab urbe condita)と呼ばれていた。この年の89という表記は、ヨーロッパで年号の命名法としてアノ・ドミニ時代が一般的になった中世初期から使われている。

概説

紀元89年はローマ帝国のドミティアヌス帝在位期(在位81–96年)にあたり、帝政ローマの対外政策や国内の治安処理が進められた年です。ユリウス暦の「通年(平年)」にあたり、当時の年号は執政官の名前で表される慣習が残っていました(「フルブスとアトラティヌスの執政の年」)。また、ローマ建国紀元(Ab urbe condita)では842年と記されます。

主な出来事

  • ローマ帝国における反乱の鎮圧:ガリア・ライン地方(ゲルマニア・スペリオル)を統括していた地方長官ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌス(Lucius Antonius Saturninus)が反乱を起こしましたが、首都側の迅速な対応によって短期間で鎮圧されました。反乱の鎮圧はドミティアヌス帝の権威を強化しました。
  • ダキアとの講和:ドナウ上流域のダキア王国(指導者デケバロス/Decebalus)との紛争が落ち着き、ローマとダキアの間で講和が成立したとされます。講和の条件にはローマによるダキアへの補助金や、デケバロスの王としての承認が含まれていたと伝えられ、短期的には国境の安定化が図られました。
  • 国境・防衛上の動き:ドナウ河岸やライン河岸など北方国境での軍事行動や守備の再編が続き、ローマは辺境防衛の強化を図りました。

文化・社会・暦の事項

  • 暦と年号の用法:当時の公式な年の呼び方は執政官名か、ローマ建国紀元(Ab urbe condita)による方法が一般的でした。現代で使われる「西暦(Anno Domini)」表記は中世以降に普及したもので、89年という表現はその後の歴史記述で用いられるようになりました。
  • ユリウス暦の特徴:ユリウス暦は紀元前45年に導入された暦で、閏年の規則により4年に1度閏年を置く方式でした。紀元89年は通年(閏年ではない)として扱われ、年初が木曜日に当たる年でした(暦の整合性に関しては当時の暦修正と実情による差異が生じる場合があります)。

注記(簡潔)

  • ここに挙げた出来事のいくつかは古代の史料や後世の史家の記述に依拠しており、年代や経過の詳細については史料間で差異がある場合があります。
  • 「フルブス」「アトラティヌス」など当時の執政官名はローマの公的年次表示に基づく呼称です。執政官の氏名表記はラテン語史料やその翻訳で異なる綴りが見られます。

さらに詳しい出来事や個別人物については、ローマ帝国内政・辺境戦争・同時代の異国の史料を参照すると、当該年の国際情勢や政治的背景がより詳しく理解できます。



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