概要
皇妃マティルダ(時にマウドとも呼ばれる)は、1102年ごろにイングランド王ヘンリー1世とスコットランドのマティルダの娘として生まれた。兄のウィリアム・アデリンがホワイト・シップ号の災厄で死亡したことを含む一連の出来事により、彼女は父の指名した後継者としての地位に置かれ、その立場はしばしば世襲の相続人としてのイングランド王位に結びつけて語られる。彼女の生涯は、大陸での皇妃としての役割、アンジュー公妃としての地位、そして中世イングランドで最も長引いた王位継承危機の一つにおける女性の請求者という、複数の顔を持っていた。
家族、結婚と称号
幼少期に、彼女は後の神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚した。これが彼女が一般に「皇妃」と呼ばれる理由である。皇帝の死後、彼女は北ヨーロッパへ戻り、その後アンジュー伯ジフルアと再婚した。この結婚で複数の子が生まれ、なかでも息子のヘンリーは後のヘンリー2世となった。これらの結婚を通じて、マティルダは高位の大陸称号を保持し、イングランドだけでなくノルマンディーやアンジューでも政治的影響力を振るった。
王位請求とアナーキー
1135年にヘンリー1世が死去すると、マティルダの継承は争われた。いくつかの有力者が彼女を受け入れると誓っていたにもかかわらず、従兄弟のステファンは王冠を奪取するため素早く動いた。これによって長期の内戦が始まり、一般にアナーキーと呼ばれる。争いは、同盟の組み替え、包囲戦、交渉期間の反復を伴い、王位継承のあり方と、女性が自らの権利で統治できるかどうかをめぐる争いとしてしばしば説明される。マティルダは時に広い領域を支配し、1141年には支持者によって統治者と宣言されるという政治的頂点に達したが、正式に女王として戴冠されることはなかった。
紛争、交渉と和解
戦乱の年月には、両陣営が交互に優勢となり、要人の重要な捕縛も起きた。ステファンとの対立はほぼ20年続き、断続的な戦闘と地方の無秩序を生み、イングランドの統治と法に影響を与えた。やがて双方は妥協を求め、公開された敵対行為の事実上の終結は、マティルダの息子の継承を認める合意によってもたらされた。1153年の取り決め—一般にウォリングフォード条約として知られる—では、マティルダ自身の請求は事実上棚上げされ、息子の将来を確保することが優先された。これにより当面の王朝対立は解決され、新たな支配王家への道が開かれた。
晩年、死去と遺産
マティルダは晩年の大半をノルマンディーとアンジューで過ごし、一族の領地と修道院への庇護に力を注いだ。彼女は1167年に死去し、のちにその息子がイングランド王位に就いてプランタジネット朝を開いた。王位承認を求めた長い闘いは複雑な遺産を残した。彼女は、揺るぎなく断固とした政治的行為者、王権に対して真剣な請求を行った中世の女性として稀有な例、そして王位継承の慣行や諸侯の権力に変化を促した危機の中心人物として記憶されている。
主な事項
- 中世史料や後世の歴史書では、「マティルダ」と「マウド」の両方で呼ばれることが多い。
- 幼いころの皇帝との結婚は、同時代の人々が彼女の権威と称号をどう見たかに影響した。
- 彼女の請求権に結びつく動乱期は通常アナーキーと呼ばれ、統治に長期的な影響を及ぼした。
- 彼女の生涯は、中世の王朝政治――婚姻同盟、継承の誓約、交渉による和解――を示している。
彼女の生涯に関わる主な人物や出来事の入門としては、父のヘンリー1世、母のスコットランドのマティルダ、失われた兄のウィリアム・アデリン、そしてホワイト・シップ号の災厄を参照できる。また、対立相手のステファン王、より広い内戦、さらに息子のヘンリーが王冠を継ぐに至った条約や継承の取り決めにも目を通したい。相続人という概念については世襲の相続人から、イングランド君主制についてはイングランド王位から補足できる。彼女の経歴を特徴づけた政治的対立は、対立請求者どうしの抗争と簡潔に要約されることもある。