ジェノサイド(大量虐殺)とは?定義・語源・歴史・代表的事例と国際法
ジェノサイドの定義・語源・歴史・代表例・国際法まで、ホロコーストやルワンダ等の事例を交えて分かりやすく解説する入門ガイド。
ジェノサイドとは、ある民族や宗教集団、またはそれに類する集団に属する多数の人々を組織的に殺害し、その集団を消滅させたり重大な被害を与えたりすることを目的とする重大な国際犯罪です。ジェノサイドは単発の個人犯罪ではなく、国家や準軍事組織、政治的指導層などの集団的・組織的な行為として行われることが多く、被害の規模や手口、動機によっては戦争犯罪や人道に対する罪と重なります。一般にジェノサイドの動機は民族浄化や政治的支配確立、差別的・排外主義的な理念に基づくことが多いとされています。
定義と法的要件
国際法におけるジェノサイドの代表的な定義は、1948年に採択された国際連合の「ジェノサイド条約」(The Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide)にあります。条約は、以下のような行為が「特定の集団を全部または一部破壊する意図(特別の故意)」を伴って行われる場合にジェノサイドと定義しています(主な行為の例):
- 集団構成員の殺害
- 構成員に対する重大な肉体的あるいは精神的な損傷の与え
- 生活条件を意図的に悪化させて集団の物理的破壊を招く行為
- 集団の生殖を妨げる措置(強制不妊や妊娠阻害など)
- 集団の子どもを強制的に別の集団に移す行為
重要な法的要素は「特定の集団(国民的・民族的・人種的・宗教的集団)を、全部あるいは一部を破壊するという特別な故意(intent to destroy)」が存在するかどうかです。条約は政治的集団を保護対象に含めていない点や、「意図」を立証する難しさなど、法的・実務的な課題も抱えています。
語源と概史
「ジェノサイド(genocide)」という言葉は、1944年にポーランド人でありユダヤ人でもあった法学者のラファエル・レムキンが、ギリシャ語で「家族・部族・人種」を意味する「genos」と、ラテン語の語根(-cide、殺すこと)を組み合わせて作り出した造語です。レムキンはナチス・ドイツによるホロコーストの悲劇を背景に、民族や文化を根絶させる行為を国際法で明確に禁じる必要があると訴えました。レムキン自身は1944年に著した著作でこの概念を展開し、第二次世界大戦後の国際法整備に影響を与えました。
レムキンはまた、1930年代のいくつかの事件(例:1933年に起きたアッシリア人に対する組織的な殺害や、第一次世界大戦期のアルメニア人大量虐殺など)を指摘し、これらの経験が「集団の破壊」という考え方の背景にあると論じました。1933年の事件については、レムキンが国際刑事法の場で問題提起を行っています(1933 年の議論や演説に関する記録は研究で言及されています)。
代表的な事例(歴史的・近現代)
ホロコースト(ナチス・ドイツ):ユダヤ人を中心に約600万人が組織的に虐殺された事例は、ジェノサイドの典型例として国際的に参照されます。ホロコーストによる大量殺害とその組織性は、ジェノサイド概念形成に大きな影響を与えました。
旧ユーゴスラビア・ボスニア(1992–1995):ボスニア紛争の過程で、民族的・宗教的な理由で多数の市民が殺害され、1995年のスレブレニツァでの男子市民の大量殺害は国際刑事裁判所等でジェノサイドと認定されました。
ルワンダ(1994年):もう一つの悲惨な事例は、1994年のルワンダでの大量殺害です。ここでは、ツチ族の約100万人が、ジェノサイドを主導したフツ族の一部によって短期間で組織的に殺害され、多数の死者・負傷者・避難民を生みました。メディアによる扇動や地方組織の動員が被害を拡大させた点も特徴です。
クロアチアのウスタシェ政権(第二次世界大戦期):当時のウスタシェ政権下で多くのセルビア人、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)などが迫害・殺害され、強制収容所や処刑が行われました。被害規模については諸説ありますが、数十万にのぼる死者が出たとされ、ジェノサイド的性質を指摘する研究もあります。
カンボジア(1975–1979):ポル・ポト指導下のクメール・ルージュ政権による大量虐殺では、都市住民、知識人、少数民族などが標的とされ、多数の死者が出ました。これをジェノサイドと評価する議論や裁判も行われています。
国際法上の取り扱いと責任追及
現在、あらゆる形のジェノサイドは国際法上禁止されています。国際社会はジェノサイドを「防止」し「処罰」する義務を負っており、条約の下で国家には加盟・履行義務があります。実際の個別の責任追及では、国際刑事裁判所(ICC)や、1990年代に設置された旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)、ルワンダ国際戦犯法廷(ICTR)などが重要な役割を果たしました。これらの裁判所は、国家指導者や軍司令官、実行者に対して個人責任を問う場となりました。
また、ジェノサイドの扇動(教唆)そのものも国際法上の犯罪となり得ます。例えば、暴力を煽る放送・出版物や政治的扇動は、実行につながる場合に処罰対象になりうると解されています。
課題と論点
- 意図の立証の難しさ:ジェノサイドを成立させるためには「集団を破壊する意図」を証明する必要があり、これを法廷で客観的に立証することは容易ではありません。計画文書や指令、公開演説、組織的な行為のパターン等が証拠となります。
- 保護対象の範囲:国際条約は「国民的・民族的・人種的・宗教的」集団を保護対象としていますが、政治的集団や経済的集団は含まれていません。この点はレムキンの原初的な意図と実際の条約との違いとして議論の対象です。
- 認識と否認(否定・歴史修正主義):ある出来事を「ジェノサイド」と国や国際機関が認定するかどうかは政治的な側面を含むことが多く、否認や史実の解釈を巡る争いが続きます。被害者の記憶をどう保障するかも重要な課題です。
- 予防と国際的対応:ジェノサイドの早期警戒と介入(外交圧力、制裁、平和維持、国際裁判の準備など)は、現代の国際政治における大きな課題です。条約が定める「防止義務」をどのように具体化するかが問われています。
まとめ(ポイント)
- ジェノサイドは「集団の破壊」を目的とする組織的な殺害・迫害であり、国際法上の最も重い犯罪の一つです。
- 語源はレムキンによる造語で、ホロコーストや20世紀に起きた複数の大量虐殺が概念形成に影響を与えました。
- 国際社会はジェノサイドの防止・処罰を約束しているが、実務上は意図の立証や政治的判断、迅速な介入の困難さなど多くの課題があります。
- 被害の実態把握、記憶の継承、司法による責任追及はいずれも重要であり、今後も国際的な議論と協力が求められます。

ニャマタジェノサイド記念館にあるルワンダのジェノサイドから出てきた人間の頭蓋骨。
メディアを再生する ジェノサイドの語源
例としては、以下のようなものがあります。
これらの出来事のすべてが大量虐殺であることに同意しない人もいますが、ここに挙げた出来事は多くの人が大量虐殺として認識しています。
質問と回答
Q:ジェノサイドとは何ですか?
A:ジェノサイドとは、ある民族や宗教、あるいはそれに類する集団に属する多くの人々をすべて殺害し、その集団を壊滅させようとする犯罪のことを指します。通常、政府や軍事組織のような集団によって行われ、一人の人間や少数の人間によって行われるものではありません。
Q:「ジェノサイド」という言葉は誰が発明したのですか?
A:「ジェノサイド」という言葉は、1944年にポーランド系ユダヤ人のラファエル・レムキンによって生み出されました。彼は「genos」(ギリシャ語で家族、種族、人種を意味する)と「-cide」(ラテン語の「occidere」、殺すという意味)を組み合わせた言葉です。
Q:レムキンがジェノサイドの考えを持つきっかけとなった出来事は何ですか?
A: レムキンが大量虐殺を考えるきっかけとなった出来事は、1933年8月11日にイラクでアッシリア人が虐殺されたときです。これは、第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺のような、以前の同様の出来事を彼に思い出させた。
Q: ジェノサイドは、今日どのように禁止されているのですか?
A: 今日、いかなる形態のジェノサイドもジェノサイド条約によって禁止されており、ジェノサイドを実行または扇動した者は、国際刑事裁判所によって裁かれる可能性があります。
Q:レムキンは国際刑事法についての演説の中で、どのような例を使ったのですか?
A:レムキンは1933年にマドリッドで開かれた国際連盟の会議で国際刑事法について演説した際、国際法に反する犯罪として蛮行の罪を論じる根拠として、1933年8月11日にアッシリア人が虐殺されたイラクでの事例を用いました。
Q: 大量虐殺の恐ろしさには、他にどのような例がありますか?
A: ユダヤ人を含む多くの人々が殺されたナチスのホロコースト、クロアチアのウスタシ強制収容所(特にヤセノバツ)で約100万人のセルビア人が殺された例、ルワンダで1994年に大量虐殺に反対したフツ族とともに約100万人が殺された例などです。
Q:レムキンがこの概念を作った目的は何だったのでしょうか?
A:レムキンは、第一次世界大戦中にアッシリア人やアルメニア人が経験したような、国際法違反の犯罪とみなされるべき虐殺を目の当たりにした経験から、この概念を作り上げたのである。
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