ジェフリー5世(1113–1151)は、ハンサムle Bel)、プランタジネットラテンplanta genista)と呼ばれ、1129年からアンジュー、トゥーレーヌ、メインの伯爵であった。1144年からはノルマンディー公となった。イングランド王ヘンリー1世の娘であり相続人でもある女帝マチルダとの結婚により、ジェフリーは息子ヘンリー・カートマントルをもうけ、彼はイングランドの王位を継承した。ジェフリーはプランタジネット家の創始者であり、彼のニックネームからその名が付けられた。

出自と若年期

ジェフリーはアンジュー伯フルク5世とその妻エルメンガルド(メーヌ出身)の子として生まれた。父フルクは後にエルサレム王となる人物で、1129年ごろに出立した際に若きジェフリーが実質的に領地の統治を引き継いだ。アンジュー家は城砦と私兵を基盤に勢力を伸ばしており、ジェフリーも幼少期から戦術や領邦統治の手腕を鍛えられた。

マチルダとの結婚と継承問題

ジェフリーの生涯で最も重要な出来事の一つが、イングランド王ヘンリー1世の娘であるマチルダ(通称「女帝マチルダ」)との結婚である。王位継承問題をめぐる情勢の中で結ばれたこの同盟は、アンジュー=イングランド間の関係を一変させた。結婚によりジェフリーはマチルダの相続権を通じてイングランド王家と深く結び付くことになり、二人の子として生まれた息子が後にイングランド王位に就くことになる。

アンジュー伯・ノルマンディー公としての活動

ジェフリーは1129年以降、アンジュー、トゥーレーヌ、メインの伯爵として領内の統治と周辺諸侯との均衡に努めた。1120年代から1140年代にかけて、イングランドをめぐる王位継承争い(通称「無政府時代」または「スティーヴンの乱」)が続く中、ジェフリーは戦略的に行動し、妻マチルダの権利を支持する勢力と連携した。

1144年には軍事行動によりノルマンディーの主要都市ルーアンを掌握し、以後ノルマンディー公としての地位を固めた。ノルマンディー支配は、後にアンジュー=ノルマンディーを基盤とする大規模な領域(後のアンジュー朝=プランタジネットの基礎)をつくる重要な一歩となった。

家族と子孫

ジェフリーとマチルダの間に生まれた最も著名な子が、のちのヘンリー2世(ヘンリー・カートマントル)である。ヘンリー2世は母の相続権と父の大陸領を継承し、エレノア・ド・アキテーヌとの結婚や一連の征服を通じて「アンジュー帝国(アンジュー朝の広域領)」を築き、1154年にイングランド王に即位した。ジェフリー自身は王位につくことはなかったが、彼の統治・婚姻政策がプランタジネット朝の出発点となった。

遺産と「プランタジネット」という名

「プランタジネット(planta genista)」という家名は、ジェフリーのあだ名や伝承に由来する。伝説ではジェフリーがヒメジオン(genêt、いわゆる「つつじ/スイバ」)の小枝を帽子に挿していたことから呼ばれたとされる。実際にこの呼称が王朝の公式姓として用いられるのは後世のことであるが、歴史的にはジェフリーを始祖とする家系は「プランタジネット朝」として知られるようになり、中世から近世にかけてイングランド王家の中心となった。

没と評価

ジェフリーは1151年に死去し、自らが築いた基盤を息子たちに残した。彼は生前にイングランド王位を得ることはなかったが、アンジューとノルマンディーの両方を掌握し、マチルダとの婚姻を通じて英仏間の政治地図を大きく書き換えた人物と評価される。彼の統治と外交・軍事の手腕は、後にヘンリー2世が広大な領土を支配するための土台となった。

注:「プランタジネット」という呼称が王朝名として定着するのは時代が下ってからであり、当時の当主たちが日常的に使っていた姓ではない点に留意されたい。