イストリア=ダルマチア出稼ぎは、第二次世界大戦後、イストリア、フィウメ、ダルマチアからイタリア系民族がディアスポラまたは強制移住させられたものである。これらの地域は、中世以来、民族が混在していた。ほとんどの人がイタリア人であったが、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人などのコミュニティーも存在した。
亡命者とFoibeの国立記念日は、すべての亡命者とFoibeの虐殺の犠牲者(殺された者と生き残った者)を記憶するためのイタリアの祭典です。
概要と呼称
一般に「フォイベ事件(Foibe)」や「イストリア=ダルマチアのイタリア人追放(エゾド・ジュリアーノ・ダルマート)」と呼ばれる出来事は、第二次世界大戦終結前後の混乱期に、旧オーストリア=イタリア混在地域で発生した暴力と人の移動を指します。戦時中の抵抗運動や占領、戦後の領土再編(パリ平和条約(1947年)など)を背景に、民族対立と報復が複雑に絡み合いました。
歴史的背景
- イストリアやダルマチアの沿岸地域は長く多民族が混在しており、イタリア語話者(イタリア系住民)とスラブ系住民(クロアチア語・スロベニア語話者)が共存していました。
- 第二次大戦中、ファシスト・イタリアによる同化政策や占領、続くナチス占領などが地域の緊張を高めました。一方で、ユーゴスラビアのパルチザン(ティトー党)は抵抗運動を展開していました。
- 戦争終結後、ユーゴスラビア側が事実上の支配を確立すると、旧支配層や協力者とみなされた人々に対する報復、あるいは共産主義体制への反対者への弾圧が行われた事例が報告されています。
フォイベ(foibe)とは
フォイベはイストリアやカルスト地帯にみられる深い岩の陥没穴(カルストの縦穴)を指します。戦後、この穴や近隣の場所に遺体が投棄された事例が複数確認され、そこから「フォイベ」と総称されるようになりました。遺体が発見された場所が自然の深い穴であったため、象徴的な名称として定着しました。
事件の経過と特徴
- 主な発生時期は1943年から1947年頃、特に1945年の春以降に集中しているとされます。
- 犠牲になったのは主にイタリア系住民とみなされた市民でしたが、スラブ系住民や政治的立場の違う者も含まれます。個別のケースでは、戦時中にファシスト当局と協力したと疑われた人物の処罰が行われた例もあります。
- 報復的殺害の形態として、銃殺後に遺体をフォイベに投棄するケースや、即時処刑の後に埋めた例など、方法はさまざまでした。
亡命(エゾド)と人口移動
これらの事件や戦後の領土帰属の変更を受け、イタリア系住民の大規模な離脱が起きました。一般に「エゾド(イタリア語: esodo)」と呼ばれ、イストリア、フィウメ(現リイカ/ Rijekaを含む)、ダルマチアの多くのイタリア語話者がイタリア本土へ移住しました。推計数は資料によって差があり、数十万規模(一般におおむね約20万〜30万人程度)とされることが多いですが、学者や国ごとに幅のある推定が示されています。
犠牲者数と史料的議論
フォイベ事件と関連する殺害の正確な犠牲者数は長く論争の的になっています。イタリア側の一部の資料や政治的論陣では多くの犠牲者数が主張される一方、国際的な学術研究やユーゴスラビア系の文献では別の数値が示されることもあります。近年の歴史研究は、現地資料、墓所の発掘記録、証言などを総合して慎重に検討しており、政治的利用を避けるべきであるという指摘がなされています。
記憶・法的・外交的側面
- イタリアでは2004年に制定された記念日(通称「亡命者とFoibeの国立記念」)が毎年2月10日に行われ、犠牲者と亡命者を追悼しています(上の段落にあるリンク参照)。
- この問題はイタリア、スロベニア、クロアチア間の歴史認識や外交関係にも影響を与えてきましたが、近年は共同での歴史研究や記念行事を通じた対話・和解の試みも行われています。
- 歴史の教訓として、暴力の被害者の記憶を尊重すると同時に、数字や事件の解釈を一義的に政治利用しないこと、事実に基づく冷静な研究の重要性が強調されています。
結語
戦後イストリア・ダルマチアでのイタリア人の追放とフォイベをめぐる出来事は、民族的混交地域での紛争、戦時中の行為に対する報復、戦後の領土処理が複合的に絡み合った悲劇でした。被害者や亡命者の記憶を継承しつつ、史実を冷静に検証し、相互理解と和解を図ることが現在も求められています。