ナショナル・レイバー・パーティー(National Labor Party)は、わずか3か月間しか存在しなかったオーストラリアの政党である。1916年11月にビリー・ヒューズ首相によって結成された。ヒューズは、1915年にアンドリュー・フィッシャーが辞任した際に、オーストラリア労働党(ALP)のリーダー兼首相に就任していた。1916年10月に行われた国民投票で徴兵制が国民に否決されると、党内の対立は深刻化し、ヒューズは分裂へと向かった。ヒューズ自身は依然として第一次世界大戦の戦力維持のための徴兵制を強く支持していた。
分裂の経緯
1916年中、徴兵を巡る党内対立は激化した。1916年9月15日にはニューサウスウェールズ州の党組織がヒューズを除名するなど局面が悪化し、その後も連邦レベルでの支持は揺らいだ。1916年11月14日、ヒューズと支持者24名は労働党の連邦議員団の会合を離れ、事実上ALPを出る形となった。残る43名の議員はヒューズの指導継続を望まなかった。
ヒューズは、ジョセフ・クック率いる英連邦自由党(CLP)の支援を受けて少数与党として政権を維持した。ヒューズ側は、当時の労働党が国家的課題に対して消極的になっているとして「もはやナショナリストではない」と主張し、戦時体制の強化と国家主義を掲げた。政策面では、労働運動の伝統的要求の一部を引き継ぎつつも、戦争遂行を最優先する姿勢を前面に出した。
組織と支持基盤
国民労働党は短命で、しっかりした全国組織を築く余地はほとんどなかった。全国規模の党組織としての構造や組織機能は乏しく、党員基盤も限定的だった。しかし、特に西オーストラリア州やタスマニア州では、一部の労働組合幹部や労働党支部からの支持を得ており、地域的には一定の影響力を持った。
合併とその後の影響
国民労働党は単独で長期的な政党基盤を築くことができず、1917年初頭にCLPと正式に合流する道を選んだ。1917年、両グループはヒューズを党首とする新党、オーストラリアの国民党を形成し、国民労働党としての独立は終わった。合併後の国民党は1917年の総選挙で勝利を収め、ヒューズは引き続き首相を務めた。
短期間の政党だったにもかかわらず、国民労働党の分裂と合流はオーストラリアの政党体系に長期的な影響を与えた。ALPは一時的に弱体化し、戦時期の政策を巡る対立は労働運動内部の分裂を深めた。一方で、ヒューズの指導のもとで結成された国民党は、戦後しばらくの間、保守連合の中核勢力として政治に影響を及ぼした。
総じて、国民労働党は「短命だが重要な過渡的存在」として、第一次世界大戦期のオーストラリア政治における大きな転換点を示している。