サミュエル・フラー(Samuel Fuller、1580–1633)は、1620年のピルグリム船メイフラワー号の乗客であり、メイフラワー・コンパクトを署名した一人です。プリマス植民地では教会の助祭として信徒たちの精神的な支えとなり、また医学の知識を生かして植民地の実質的な医師として働きました。
生い立ちとライデンでの生活
フラーは肉屋ロバート・フラーの息子として生まれ、1580年1月20日にイングランド・ノーフォーク州レデンホールで洗礼を受けたと記録されています。イングランドでは公式に認められていなかった分離主義の宗教に属し、同じ信仰を持つ人々と共に信仰の自由を求めて生活しました。
1610年にはオランダのライデンへ移住し、そこでコミュニティの活動に参加しました。ライデンの記録ではフラーが「ロンドンの軍曹」と呼ばれている記録が残っており、これはロンドンでの職務や地位を示すものと考えられています。ライデンでは、デゴリー・プリーストやサラ・アラートン(アイザック・アラートンの妹)らと親交があり、教会活動にも熱心に関わっていました。
1615年にはフラーの最初の妻と息子が相次いで亡くなり、その後ブリジット・リーと結婚しました。
植民計画への関与とメイフラワー航海
分離主義者たちが新大陸のバージニア植民地へ移住する計画において、フラーは重要な役割を果たしました。彼らはバージニア・カンパニーと協定を結び、移住の準備を進めました。フラーはエドワード・ウィンスロー、ウィリアム・ブラッドフォード、アイザック・アラートンらとともに、1620年6月10日にジョン・カーバーとロバート・クッシュマンへ手紙を送り、航海と植民計画の調整を図りました。これらの連絡は、ロンドンにいた関係者と現地のピルグリムたちとの橋渡しの役割を果たしました。
しかし、ロンドン側の商人グループ(トーマス・ウェストンら)は契約内容を変更し、商人側が家屋や土地の半分を保持するなどの条件が加えられました(この点については会社が契約を変更したとされています)。また、巡礼者に対する労働や休息の日数に関する取り決めも問題となり、これらの論点はロバート・クッシュマンがフォーチュン号で到着する1621年11月まで完全には解決しませんでした。
医師としての活動
フラーは新世界へ渡る前に一定の医学を学んでおり、専門の医師が不在だったメイフラワー号および初期のプリマス植民地で、実際に病人の手当てを行いました。航海中や到着直後の厳しい冬に、多くの入植者が疫病や栄養失調、寒さで病に倒れた際、フラーの治療と看護は植民地の生存にとって不可欠でした。公式な医師や外科医の数が限られていた当時、フラーのような医学知識を持つ者は非常に重要な存在でした。
晩年と遺産
サミュエル・フラーはプリマス植民地で長年にわたり教会と住民のために尽くし、1633年に亡くなりました。彼の働きは植民地初期の歴史に深く刻まれており、後世に記録されています。アメリカ北部の町の一つ、ノースダコタ州フラートンの町は、彼の名にちなんで名づけられたと伝えられています。
フラーはメイフラワーの移民たちが直面した困難の中で、信仰の仲間として、また実務的な医療者として重要な役割を果たしました。その人生は、宗教的自由を求めて新天地をめざしたピルグリムたちの物語の一部として今日も語り継がれています。


