ジョン・カーバー(約1584年–1621年)は、メイフラワー号の乗客であり、航海中および植民開始期の主要な指導者の一人でした。彼はメイフラワー号の航海中に全乗組員・入植者が従うべき規約として作成されたメイフラワー・コンパクトに署名し、到着後はプリマス植民地の初代総督でもありました。カーバーの指導力と資金提供がなければ、植民地設立はより困難になったと考えられています。
カーバーはヨークシャーのイングランド、具体的にはドンカスター周辺で生まれたと伝えられています。教会制度に従わない独立教会(分離主義)の信徒であり、弾圧を避けるために仲間と共にオランダへ移り、ライデンで共同体生活を送りました。ライデンでは教会の指導的立場にあり、地域の集まりで重要な役割を果たしていたと見られます。
カーヴァーと彼の最初の妻メアリーは、ライデンにあるフランスのワロン教会のメンバーであったと記録されています。彼らの居住地では、分離派の信仰は公的には認められておらず、迫害や制約を避けるための移住でした。メイフラワー号に乗っていたフランシス・クックとその妻、さらにフィリップ・デラノらも同じライデンの教会に属していました。デラノは後に1621年にフォーチュン号でプリマスに到着します。ライデンの教会記録によれば、カーバーは1609年頃に最初の妻メアリーと子を亡くしており、このことから彼は1584年以前の生まれと推定されています。
その後カーヴァーはキャサリン・ホワイトと再婚しました。キャサリンは分離主義教会のメンバーで、ノッティンガムシャーの出身でした。ライデン滞在中、カーバーは教会の指導者たち、特に教会指導者ジョン・ロビンソンと親密な関係を築き、また植民計画の実務面で重要な役割を担うロバート・クシュマンとも協力しました。こうした人々との連携が、後の渡航計画の実現に不可欠でした。
カーバーら教団員は、信仰を自由に実践できる地を求めて新世界への移住を決意します。政治的理由で公に動けなかった者もおり、ウィリアム・ブリュースターはその代表例です。そのため、ジョン・カーバーとロバート・クシュマンが航海や資金調達の実務を担い、1617年頃からバージニア社の関係者やロンドンの出資者たちと交渉を始めました。交渉相手には新世界からの利益を期待するロンドンの実業家が含まれていました。
1620年の出航準備が進む中、カーバーは資金面と物資調達の主要な責任者の一人となり、6月までにはクリストファー・マーティンと共に、メイフラワー号の航海のための物資を購入するためにサウサンプトンに滞在していました。彼らはメイフラワー号の航海費の一部を負担することで合意し、カーヴァー自身もかなりの私財を投じて仲間を支えました。こうした出資と手配により、船の運航と植民の初期費用が成立しました。
到着後の数か月は厳しいものでしたが、カーバーは植民地の組織化、入植地の選定、初期の清掃遠征や物資配分などに積極的に関与しました。1620年11月(ユリウス暦では11月11日)に署名されたメイフラワー・コンパクトでは、共同体の法と秩序を保つための合意が確認され、その初代の執行者としてカーバーは総督に選出され、共同体の代表的な存在となりました。
しかし、到着翌年の1621年春、カーバーは急な病に倒れて亡くなりました。死亡日は記録により差異がありますが、一般には1621年4月ごろとされています。死因の詳細は不詳で、植民地初期に流行した病気や酷使され続けた肉体的負担が影響したと考えられています。彼の正確な埋葬場所は明らかではありませんが、当時の習慣から非公開の共同墓地に埋葬されたと推測されます。カーバーの死後、ウィリアム・ブラッドフォードが後任の総督に選ばれ、プリマス植民地の指導を引き継ぎました。
カーバーの評価は、指導力と財政的支援の両面で高く、初期プリマス植民地の成立と安定に大きく貢献した人物として記憶されています。彼が署名したメイフラワー・コンパクトは、アメリカ植民地における自治と市民的合意の先駆的文書として後世に影響を与えました。
参考として、ライデンやプリマスでの教会記録・入植者記録にはカーバーに関する断片的な情報が残されており、彼の生涯や業績は当時の一次資料(航海日誌やブラッドフォードの記録など)から主に知られています。


