演説は1947年3月12日にアメリカの大統領ハリー・S・トルーマンが米国議会で行ったものである。この演説でトルーマンは、ソ連の影響拡大や共産主義の進展を抑えるために、ギリシャとトルコを政治的・経済的に支援すべきだと訴えた。トルーマンはこれらの国々が「全体主義者」の台頭にさらされる恐れがあると警告し、アメリカの対外政策として差し迫った支援の必要性を強調した。こうした方針は後にトルーマン・ドクトリンと呼ばれるようになり、一部の歴史家は、これを冷戦の始まりと位置づけている。
背景と直接のきっかけ
当時の国際情勢では、第二次世界大戦直後の復興負担により、伝統的に地中海地域で影響力を持っていた英国が支援を継続できなくなっていた。実際には、英国は第二次世界大戦の費用負担で経済的に逼迫し、1947年2月にギリシャとトルコを直接援助することを打ち切る意向を示した。この英国の撤退が、米国が介入を決める直接の引き金となった。
ギリシャでは内戦が続き、共産主義勢力(パルチザン)と政府側の争いが激化していた。トルーマンは、経済的・軍事的支援がなければギリシャやトルコが困窮し、東ヨーロッパが示したように、より容易に共産主義の影響下に入ると懸念した。トルーマンの演説は、米国がこの脅威に対して能動的に対処するという方針の表明でもあった。なお、この時点でソビエト連邦が直接的にギリシャの共産主義者を大規模に支援していたという決定的な証拠は乏しく、トルーマンの判断には安全保障上の予防的要素も含まれていた。
内容と影響
トルーマンは議会に対し、ギリシャとトルコへの軍事的・経済的支援を求め、1947年には約4億ドル(当時)規模の援助が承認された。具体的にはギリシャ向けに約3億ドル、トルコ向けに約1億ドルが割り当てられたとされる。この援助は、直接的には内戦収束や治安回復、経済再建のためのものであったが、政治的には「封じ込め(containment)」の原則を対外政策に組み込む重要な転換点となった。
トルーマン・ドクトリンは、米国が共産主義の拡大を世界各地で阻止するために軍事的・経済的手段を用いるという姿勢を明確にした。政治史家のウォルター・レーバーは「ドクトリンはイデオロギーの盾になった」と指摘し、アメリカがこの方針を外交政策の正当化や行動原理として利用した面があると論じている。その後に続くマーシャルプラン(欧州復興計画)や北大西洋条約機構(NATO)の形成とあわせて、アメリカ主導の冷戦体制が構築されることになった。
評価と遺産
トルーマン・ドクトリンは、即時的にはギリシャ内戦の政府側勝利を助け、トルコの安定化にも貢献したと評価される一方で、冷戦期を通じて米国の軍事介入や政権支援を正当化する口実になったという批判もある。冷戦終結後も、このドクトリンが示した「イデオロギーに基づく介入」の枠組みは、現代の外交政策論議においてたびたび参照される。
まとめると、トルーマン・ドクトリンは1947年のトルーマン演説に端を発する対外政策であり、ギリシャとトルコへの支援をきっかけに、米国が共産主義の拡張を抑えるための長期的な関与を明確にした点で歴史的に重要である。

