西パキスタンとは|1955年創設〜1971年解体と東パキスタン/バングラデシュ独立の経緯

西パキスタンの1955年創設から1971年解体、東パキスタン(現バングラデシュ)独立に至る政治・軍事・社会の経緯を詳しく解説

著者: Leandro Alegsa

概要と成立

西パキスタン州は、1955年10月14日に西翼の州、、部族地域が合併して発足した行政区分です。設立時には州は12の部門(ディヴィジョン)で構成され、州都はラホールに置かれました。これに伴い、かつての東ベンガル州は東パキスタンに改称され、州都はダッカ(当時の英字表記ではDACCAとも表記)に置かれました。連邦政府は1959年、カラチからラワルピンディ(イスラマバードが完成するまでの暫定首都)に移転し、連邦議会DACCAで会合を開くこともありました。

一元化政策(One Unit)の目的と課題

西パキスタンの成立は、いわゆる「一元化政策」(英語では One Unit)によるものでした。政府はこれを、行政の合理化、支出削減、地域間の偏見や不均衡の是正を図る改革だと説明しました。だが実際には、新たに設けられた大きな行政単位の内部には、異なる文化・歴史・経済的背景をもつ集団が共存しており、内部の多様性を無視する形になりました。たとえば、パンジャーブ、シンド、パシュトゥーン(パクトゥン)、バローチなどの異なる民族と、ウルドゥー語、パンジャーブ語、シンド語、パシュトー語、バローチ語など多様な民族・言語を有する人々が含まれていました。

制度的には、一元化により地方政権の権限が中央へ吸収され、地方の自治を求める声が強まりました。改革を評価する向きもありましたが、特に地方エリートや民族集団からは反発が生じ、地域対中央の緊張は高まっていきました。こうした状況は、後の政治危機を招く一因となります。

軍事介入と地方統治の変化

1958年の軍事クーデター以降、政治体制はさらに中央集権化しました。軍事政権は州政府の構造を改め、元政策とされる一元化の下で地方長官や首席大臣などの職務が整理・廃止されました。特に1958年の政変では、州の首席大臣職が事実上廃止され、国家権力が大統領と軍部に集中していきました。これにより地方レベルでの政治的代表性や自治の余地は大きく制約され、地方の不満は蓄積しました。

1970年総選挙と政治的対立

1970年12月に実施された総選挙では、東パキスタンの最大政党であったムジブル・ラーマン率いるアワミ連盟が圧勝しました(東パキスタンに割り当てられた162議席のうち、2議席を除いてほぼすべてを獲得したとされます)。アワミ連盟は東パキスタンの高度な自治(事実上の自治拡大)を公約に掲げており、国政での主導権を求めましたが、当時の西ベースの軍事政権や政治勢力は、ムジブル・ラーマンに基づく政府成立を認めようとはしませんでした。この権力移行の拒否が、事態の決定的な悪化を招きます。

内戦と独立戦争(1971)

1971年3月25日、中央政府は東パキスタンにおける政治的決着を軍事力で図ることを決定し、抑圧作戦(Operation Searchlight)を開始しました。これにより、東パキスタンでは大規模な武力衝突と住民の虐殺が発生し、東側の住民は反発を強めて武装抵抗に転じました。パキスタン軍と、東パキスタン側の解放戦線であるムフティ・バヒニ派との間で内戦が本格化しました。こうした軍事行動は大量の民間人犠牲と広範な難民流出を招き、難民危機は近隣国の関与を促しました。

東パキスタンでの暴力と人道危機は、推計で多数の死者と多数の負傷者・行方不明者を生み、数百万人規模の人々がインドへ避難しました。こうした状況は、最終的にインドの直接介入(1971年末の印パ戦争)につながり、戦局はパキスタン軍の降伏へと傾きます。ベンガル人コミュニティは深刻な被害を受け、国際的な非難も高まりました。

独立と西パキスタンの解体

戦闘の末、東パキスタンは1971年12月16日にバングラデシュの独立国家として事実上の成立を迎えました。これにより、「西パキスタン」という行政区分は実体を失い、その呼称は冗長になりました。1970年前後には、西パキスタン内部でも一元化政策の見直しや州再編の議論が続き、最終的には旧来の州や地域ごとの再編成が進められていきました。

影響と評価

  • 一元化政策は、行政効率を狙った改革でしたが、民族・言語・地域ごとの多様性を抑えたために反発を招き、長期的には国家の分裂を助長したとの評価があります。
  • 1971年の出来事は南アジアの地政学を大きく変え、インド・パキスタン関係のみならず地域の安全保障や難民問題、人権の議論に深い影響を及ぼしました。
  • バングラデシュ独立後も、戦争中の被害や責任の問題は国内外で長く論争の対象となり続けています。

以上が、西パキスタンの成立から1971年の解体、そして東パキスタン(バングラデシュ)独立に至る主要な経緯とその背景・影響の概説です。歴史的事実や推計数値には諸説がありますが、ここでは主要な流れを分かりやすくまとめました。

関連ページ

  • パキスタンの支配


質問と回答

Q:1955年10月14日に誕生した州の名前は何ですか?


A: 1955年10月14日に誕生した州は、西パキスタンと呼ばれていました。

Q: 西パキスタンの州都はどこにあったのですか?


A: 西パキスタンの州都はラホールに設置されました。

Q: 「一単位政策」は何を目指していたのですか?


A: 「一単位政策」は、合理的な行政改革を行うことにより、支出を減らし、地方の偏見をなくすことを目的としたものです。

Q: ヤヒヤ・カーン大統領が西パキスタンの州を解散したのはいつですか?


A: ヤヒヤ・カーン大統領は1970年7月に西パキスタンの州を解散しました。

Q: 1970年12月に行われた総選挙で、議会で過半数を獲得したのは誰ですか?


A: 1970年12月に行われた総選挙で、ムジブル・ラーマン率いるアワミ連盟が、東パキスタンに割り当てられた162議席のうち、2議席を除く全議席を獲得し、過半数を占めました。

Q: 1971年3月25日に何が始まり、バングラデシュの独立につながったのか?A: 1971年3月25日、西パキスタンは東パキスタンの民主的勝利を鎮圧するために内戦を開始し、最終的にバングラデシュの独立につながりました。

Q: 東パキスタンがバングラデシュとして独立したのはいつですか?A: 東パキスタンは1971年12月16日にバングラデシュとして独立しました。


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