西暦205年(ローマ数字ではCCV)は平年で、ユリウス暦では火曜日から始まった。西暦205年という表記は、後に中世ヨーロッパでキリスト教的な年代記法が標準化されるにつれて付けられたものである。同時代の社会では、在位年や地域ごとの独自の暦法がさまざまに用いられていた。
政治的背景
ローマ世界では、セウェルス朝が帝国の権力を握っていた。皇帝の政策は軍事力を基盤としつつ、王朝継承の確保と属州の忠誠の維持を図るものだった。ユーラシアの他地域では、中国の後漢末が分裂しつつあり、有力な地方軍閥が領土と影響力を争って、のちの三国時代へつながる状況が生まれていた。ローマにおける中央集権的な統治と、中国における地域分裂という大きな流れは、この時代を特徴づける要素である。
行政や軍事の動向は地域によって異なったが、3世紀初頭には共通して、頻繁な軍事行動、エリート層の権力をめぐる交渉、そして国家財政への負担増大が見られた。地中海世界の交易路やアジア内陸部の陸路は、物資、思想、技術を遠隔地の社会へと伝え続けていた。
暦法と年代記法
現代の説明では、この年は西暦205年と表される。古代ローマ人はこれを「ローマ建国紀元958年(Ab urbe condita)」と示すこともあった。歴史学では、ユリウス暦のような体系を用いて古代の日付を現代の年代順に対応させる。ここで示した暦法の簡潔な参照としては、ユリウス暦とCCVの項目を参照するとよい。
205年に関する一次史料は断片的であり、碑文、公的名簿、後世の年代記などに限られる。現存史料は範囲や信頼性が異なるため、個々の出来事の叙述は、考古学、貨幣学、そして異文化間の文献による補強証拠を用いて、歴史家が慎重に再構成することが多い。
遺産: 200年代初頭は、政治地図を大きく変えた移行期として記憶される。ローマでは、セウェルス朝のもとでの王朝的・軍事的な傾向が帝国統治に影響を与え、中国では漢の権威の崩壊が地域再編を加速させた。こうした過程は、3世紀後半にかけて見られる独特の政治的景観の形成に寄与した。