アルフレッド・エマニュエル・スミス・ジュニア(Alfred Emanuel Smith, Jr.)(1873年12月30日 - 1944年10月4日)は、公私ともにアル・スミスとして知られるアメリカの政治家です。ニューヨーク州政界で台頭し、第42代ニューヨーク州知事に4度当選(1919–1920、1923–1928)しました。進歩的な立場から州政府の近代化や社会政策の導入に取り組み、同時にマンハッタンの政治を支配していたタンマニーホールと深く結びついていたことでも知られます。州知事としての任期中、特に禁酒法への反対を明確にし、都市部の有権者基盤を固めました。
出自と政治家としての台頭
スミスはニューヨーク市で生まれ育ち、移民や労働者階級出身の有権者と結びつくことで政治的基盤を築きました。若くして地方政治に参加し、州議会や市政での経験を積むうちにタンマニー・ホールの後ろ盾を得て昇進していきました。演説の巧みさや大衆に訴えるスタイルで知られ、都市の労働者や移民コミュニティから強い支持を得ました。
知事としての改革
知事在任中のスミスは、公的サービスと行政の近代化、労働者保護や福祉制度の拡充に力を入れました。具体的には以下のような分野で成果を残しました。
- 州政府機構の効率化と予算管理の改善
- 労働安全や労働者の権利保護に関する法整備の推進
- 公共事業やインフラ整備を通じた雇用対策
- 住宅や都市計画に関する取り組み(都市の生活改善を意識した政策)
こうした政策により、彼は「進歩主義的な実務家」として評価される一方で、タンマニー・ホールとの関係や機構政治をめぐる批判も受けました。
1928年大統領候補としてとその後
スミスはカトリック教徒として初めて主要政党の大統領候補に擁立され、都市の移民・カトリック系有権者を結集しました。1928年の選挙では、禁酒法反対や都市政策への支持を背景に都市部で強い支持を得たものの、南部や中西部のプロテスタント有権者の間に根強い反カトリック感情があり、また当時の好景気もあって、共和党のハーバート・フーバーに大差で敗れました。
1932年には大統領候補の指名を争いましたが、党内での支持は伸びず、かつての盟友であったフランクリン・D・ルーズベルトに敗れて指名を得られませんでした。1930年代以降はニューヨークで実業や慈善活動に従事し、次第にルーズベルトのニューディールに対して批判的な立場を強めていきました。
1939年には、教皇庁から栄誉ある称号の一つである教皇侍従(いわゆる「剣とマントの教皇侍従」)に任命され、カトリック教会からも顕彰を受けました。
スミスは1944年10月4日、心臓発作のためロックフェラー研究所病院で死去し、ニューヨークのカルバリー墓地に埋葬されました。彼の政治的遺産は、都市の多様な有権者を政治に巻き込み、州政の近代化を推進した点にありますが、同時に党内対立や宗教・民族をめぐる分断の課題も残しました。