この記事のタイトルには、「ß」の文字が含まれています。利用できない、あるいは望まない場合は、Arthur Seyss-Inquartと表記することがあります

アルトゥール・ゼイス=インカートArthur Seyß-Inquart)は、アンシュルス以前のオーストリア第三帝国戦時中のドイツポーランドオランダにおける著名な弁護士、後のナチス関係者である。ザイス=インカートは人道に対する罪でニュルンベルク裁判にて処刑された。

生い立ちと経歴の概略

ゼイス=インカートは法学を学び弁護士として出発し、第一次世界大戦後のオーストリアで官僚・政治家としての道を歩みました。オーストリア国内の保守的・反共的な政治勢力とのつながりを深め、やがてナチ党との協力関係を築いていきます。ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)前後には、政治的に重要な役割を果たしました。

アンシュルスとドイツへの協力

1938年のアンシュルスの際、ゼイス=インカートはオーストリア側の要職に就くなどして、ドイツによる併合を円滑に進める立場にありました。併合後はドイツ側の政権や行政構造に取り込まれ、ナチ体制の一員として活動しました。

オランダ占領期の長期統治

第二次世界大戦中、ゼイス=インカートはオランダにおける「ライヒスコミサー」(総督)として統治を行いました。占領政策の実行者として、ドイツ軍政の行政運営、反抵抗活動の弾圧、ユダヤ人や抵抗関係者の摘発・ deportation(強制送還)に深く関与したとされます。彼の統治下で多くのオランダのユダヤ人が収容所へ送られ、多数が命を落としました。

戦後の裁判と処罰

戦後、ゼイス=インカートはニュルンベルク裁判を含む国際的な裁判で起訴され、戦争犯罪および人道に対する罪で有罪判決を受けました。これにより死刑が言い渡され、1946年に処刑されました(ニュルンベルクでの主要な被告の一人として処罰を受けたことは国際法上の重要な事例となりました)。

評価と歴史的位置づけ

ゼイス=インカートの人物像や責任については、法的・道徳的観点から幅広い議論があります。行政的能力を持った官僚が国策に従って行った行為の責任、占領政策における命令と実務上の判断の関係、そして個人の倫理的選択と体制への追随の問題は、今日でも研究・討議の対象です。

補足

  • 名前の表記について:ドイツ語の姓に含まれる「ß」は日本語表記や英字表記で「ss」とすることが多く、文献により表記ゆれがあります。
  • 主要な史料・学術研究では、彼の行政文書・命令書や占領期の公文書が検証され、責任の所在や具体的な政策実施の実態が明らかにされています。