ヘンリー・モートン・スタンレー卿(Sir Henry Morton Stanley GCB)(ジョン・ローランズ、1841年1月28日~1904年5月10日)は、ウェールズ出身のジャーナリストであり、探検家でもあった。中央アフリカを探検し、宣教師で探検家のデビッド・リヴィングストンを探したことで有名。
スタンレーは、探検と報道を結びつける形で名声を得た人物である。アメリカの新聞社で記者としての経験を積んだ後、1871年にニューヨーク・ヘラルド紙の依頼で、消息が途絶えていたリヴィングストン捜索に赴いた。タンガニーカ湖岸のウジジ(Ujiji)でリヴィングストンと会見し、伝説となった言葉 "Dr. Livingstone, I presume?" を発したと伝えられている。以降も彼は、ナイル川の源流探査やコンゴ盆地での偵察・航行、さらに後年のエミン・パシャ救援隊の指揮など、多くの大規模な遠征を主導した。
初期の経歴と記者としての出発
生い立ちは貧しく、幼少期に家族と離れた経緯がある。青年期にアメリカへ渡り、南北戦争期には軍務に就いたとの経歴を持つ(この時期に現在の名前「ヘンリー・モートン・スタンレー」を名乗るようになった)。帰国後は報道活動を通じてアフリカ探検の資金と機会を得た。
リヴィングストン発見とその後の探検
1871年のウジジでの遭遇は世界的な注目を集め、スタンレーは探検家としての名声を確立した。続いて彼は1874~1877年の大規模な遠征でコンゴ川の航路をたどるなど、未踏と考えられていた地域の地図化に貢献した。これらの成果は欧米の地理学・地図学に大きな影響を与えた。
コンゴとレオポルド2世—協力と論争
スタンレーは後にベルギー王レオポルド2世のためにコンゴ内陸の探査・開拓に協力し、その結果コンゴ自由国(後のコンゴ植民地化)の設立へとつながる道筋が作られた。しかしこの関与は、現地での搾取と暴力を助長した点で強い批判を招くことになる。スタンレー自身の遠征は、現地民の強制労働や暴力の温床になったとされる。
エミン・パシャ救援隊(Emin Pasha Relief Expedition)
1886年からのエミン・パシャ救援隊は、スタンレーが率いた最後期の大規模遠征の一つで、極端な困難と激しい抵抗、また多大な犠牲を伴った。隊の行動は当時から論争の的となり、現代でもその過程で起きた暴力や人命損失について批判が続いている。
スタンレーの探検隊は、アフリカ人を残酷に殺害したことで知られている。近年の歴史研究や植民地主義批判の中では、彼の遠征が引き起こした死者数や暴力の規模が問題視され、これが彼の評価を大きく左右している。
政治的栄誉と晩年
探検家としての業績により、スタンレーはイギリスとベルギー両国の君主から栄誉を受け、1899年にナイトの称号を与えられた。また、1895年から1900年までランベス北地区の議員を務め、政治の場でも活動した。だが同時に、植民地政策や人権に関する批判は生涯を通じて付きまとった。
評価と遺産
スタンレーは拓かれていなかった地域の地理学的知見や探検手法に貢献した点で高く評価される一方、暴力的な手法や植民地支配への加担という負の遺産も強く残した。20世紀後半以降は、かつての英雄神話が見直され、彼の行為とその影響に対する批判的な検証が進められている。記念碑や地名としての彼の名が残る例もあるが、評価は評価者や時代によって大きく分かれる。
最期は1904年にロンドンで没した。スタンレーの生涯は、探検と帝国主義が密接に結びついた時代の複雑さを象徴するものであり、その光と影は現代の歴史認識の重要な検討対象となっている。


