ローマ教皇ピオ9世(ラテン語:Pius PP. IX、イタリア語:Pio IX、1792年5月13日 - 1878年2月7日)は、ジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェレッティとして生まれたローマカトリック教会のイタリアの司祭で、1846年から死ぬまで、第256代教皇であった。ピウス9世は約32年にわたって在位し、その長期にわたる在位は近代教会史でも特筆に値する。
出自と司祭としての歩み
1792年に生まれたジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェレッティは、若くして教会の道を歩み、神学と教会法の教育を受けた後、司祭に叙階された。教区での奉仕やローマでの教会行政に携わり、やがて枢機卿に叙され、教皇選挙の候補として注目されるようになった。
教皇選出と初期の方針
1846年の教皇選挙でピウス9世に選出されると、当初は恩赦や行政改革など比較的寛容で近代化を志向する姿勢を示した。そのため欧州の自由主義的期待を集め、一時は「改革派教皇」と見られることもあった。しかし、のちの政治的混乱や1848年の革命運動を契機に方針は保守的・教権的な方向へと転換していった。
教義・公文書と論争
- 無原罪の定義(1854年) — 教皇ピウス9世は教皇権威のもと、聖母マリアの無原罪懐胎を教義として定式化する公文書を発表し(Ineffabilis Deus)、これが広く注目された。
- 『誤りのカタログ(Syllabus of Errors)』(1864年) — 近代思想や世俗主義に反対する立場を示す文書で、教会と近代化の緊張を象徴するものとなった。
- 第一バチカン公会議(1869–1870年) — ピウス9世は公会議を招集し、信仰宣言や教皇の無謬性(教皇在位中の教義宣言に関する定義、いわゆる教皇無謬性)に関する議論を主導した。これにより教会の教義体系に重要な変化がもたらされた。
政治とローマ教皇領の喪失
19世紀半ばのイタリア統一運動(リソルジメント)の進展は、教皇領を含むイタリア半島の政治地図を一変させた。ピウス9世の在位中、教皇領は徐々に縮小し、1870年にはローマがイタリア王国に併合され、教皇は世俗的な領土を失った。以後、ピウス9世は自らを「バチカンに幽閉された教皇(prisoner of the Vatican)」とみなし、ローマ教皇とイタリア王権との関係は長く緊張状態が続いた。
晩年と死、列福
1878年に在位31年余で死去したピウス9世の死後、その功績と論争的側面は長く議論の対象となってきた。一方で教会内部ではその聖徳を称える声もあり、列福の手続きが進められた。2000年には、カトリック教会の聖人として名を連ねるためのステップである列福を受けた。(列福は2000年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって宣言された。)
評価と歴史的意義
ピウス9世は、教義の定式化や教皇権の強化といった宗教面での大きな影響を残す一方、近代国家との対立や政治的保守性が批判の対象ともなった。そのため、歴史家や信徒の間で評価は分かれるが、19世紀の教会とヨーロッパ社会の関係を理解するうえで欠かせない重要人物であることは間違いない。