ボストン虐殺は、1770年3月5日に起きた事件で、当夜、5人の民間人(軍隊に所属していない人)がイギリス軍の兵士の発砲により死亡した出来事である。当時、イギリスの植民地であったマサチューセッツ州ボストンで起きた。事件の発端は夜、税関事務所(カスタムハウス)の外に群衆が集まっている場面であった。ある一人のイギリス兵、プライベートのヒュー・ホワイトが若い男を殴ったことから事態は悪化し、殴られた少年は逃げ出したが、怒った群衆が戻ってきたため、ホワイトを守るためにさらに多くの英兵が現場に駆けつけた。群衆は雪玉や貝殻などを兵士に投げつけ、騒ぎはエスカレートしていった。混乱の中で誰かが「発砲だ(Fire!)」と叫んだとも伝えられ、兵士の一部が群衆に向かって発砲した。最初に死亡した一人はアフリカ系アメリカ人のクリスパス・アタックスであった。
背景
1768年以降、ボストンには反英感情の高まりを抑えるためにイギリス軍が駐留していた。タウンゼンド法(間接税)などの政策が植民地側の反発を招き、港湾検査や税関取り締まりが強化されると、市民と駐留軍の間の緊張は増大した。小さな衝突や言い争いが頻発するようになり、事件はこうした長年の対立の延長線上で起きた。
当日の経緯(詳細)
- 夜に税関事務所の外で若者がイギリス兵と口論になり、ヒュー・ホワイトが一発殴った。
- 群衆が増え、ホワイトを取り囲もうとしたため、近くの兵士が援護に来た。隊長格としてはトーマス・プレストンらが関与したとされる。
- 群衆は雪玉、氷の塊、貝殻、棒などを投げつけ、兵士側は威嚇のため銃剣を構えたが、やがて発砲が行われた。
- この発砲で5人が死亡、数人が負傷した。死亡者にはクリスパス・アタックス、サミュエル・グレイ、ジェームズ・カウルドウェル、サミュエル・マヴェリック、パトリック・カー(後に死亡)が含まれる。
裁判と直後の反応
事件後、駐留兵の一部と指揮官は裁判にかけられた。著名な愛国者ではないものの法曹家のジョン・アダムズが、義務として弁護を引き受け、法の支配と公平な裁判の重要性を主張して兵士たちを弁護した。結果、トーマス・プレストンら多くは無罪となり、2人の兵士は過失致死(過失殺人)で有罪となり舌に“M(manslaughter)”の刻印を受けたにとどまった。
一方で、事件はパトリオット(独立支持者)によって激しく宣伝され、ポール・リビアなどによる版画やパンフレットが広まり、「イギリスの残虐行為」として植民地全体の反英感情を燃え上がらせた。
歴史的影響と意義
ボストン虐殺はアメリカ独立運動を直接的に引き起こした唯一の出来事ではないが、独立への機運を高め、植民地の結束を促す重要な転換点となった。以下が主な影響である:
- プロパガンダの力:事件は宣伝材料として用いられ、英軍の駐留や課税政策に対する反対を広く喚起した。
- 司法と市民権の議論:ジョン・アダムズによる弁護は、公平な裁判の原則と法の支配(rule of law)の重要性を示す出来事となった。
- 人種と記憶:クリスパス・アタックスはアフリカ系アメリカ人の最初の犠牲者として記憶され、後世において人種的正義や公民権運動の文脈でも引用されるようになった。
- 独立への道:事件は1770年代を通じて続く抗議運動やボイコット運動を後押しし、最終的に独立戦争へとつながる政治的土壌を形成した。
記念と評価
ボストン虐殺は記念碑や記録によって後世に伝えられている。ボストンでは犠牲者を追悼する記念碑が建立され、歴史教育や議論の対象となっている。研究者の間では、事件の原因や責任、宣伝の役割について多様な解釈があり、単純な「一方的な虐殺」としてだけではなく、群衆行動・軍の統制・政治的文脈を合わせて検討されるべき出来事だとされている。
ボストン虐殺は、瞬間的な暴力の事件であると同時に、その後の歴史的展開を左右した象徴的出来事であり、当時の植民地社会、司法、政治的コミュニケーションのあり方を理解するうえで重要な事例である。



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