ウィリアム・ブリー(William Bligh、1754年9月9日-1817年12月7日)は、イギリス海軍の将校である。1776年、ジェームズ・クック船長の3回目の航海に同行し、最後の航海に出た。1787年、ブリーはバウンティ号の船長となり、パンの実を採取するためにタヒチへ向かった。しかし、バウンティ号の反乱により、この任務を遂行することはできなかった。1806年、彼はニューサウスウェールズ州の総督に任命された。イギリスに戻ったブリーは、イギリス海軍の少将、後に副将に任命された。
概観
ウィリアム・ブリーは、優れた航海術と厳格な規律で知られる一方、その厳しい性格が船員や同僚との衝突を招いた人物でもある。彼の名は主に1789年のバウンティ号反乱と、その後の過酷な漂流からの生還、さらに1806年以降のニューサウスウェールズ総督としての論争的な統治で広く知られている。
初期の経歴とクック船長との航海
ブリーは若くして海に入り、航海術と航法に優れた才能を示した。1776年にはジェームズ・クックの3回目の太平洋航海に参加し、航海の実務を担当する立場で経験を積んだ。クックの隊での経験は、後年の長距離航海や小型艇での巧みな操船に直結している。
バウンティ号の航海と反乱
1787年、ブリーは商務省の命を受け、植民地や奴隷労働を利用する代替として、西インド諸島のプランテーションで食用とされることが期待されたパンの実(breadfruit)を大量に採取し、イギリス領に移送するためにバウンティ号の船長に任じられた。航海は一旦タヒチに達し、当地で数カ月間停泊してパンの実を積み込んだ。しかし1789年4月、航海の途中で乗組員の間に不満が高まり、フェッチャー・クリスチャンらを中心とする反乱が発生した。
反乱当日、ブリーと忠実な士官・一部乗組員は小型のボート(ローチ)に追いやられ、無給油・少量の食料で海に放たれた。ブリーは卓越した航法の腕を発揮し、通常では不可能と見なされた小型ボートでの長距離航海を指揮した。彼らは約47日間、極めて過酷な環境の中を航行し、約3,600海里(伝承では約3,618海里)をたどってオランダ領・ティモールに到達した。この航海は航海史上に残る驚異的な航法の業績として評価される。
反乱の余波と裁判
ブリーはイギリスへ戻ると反乱者の追及を訴え、王室海軍は反乱者逮捕のための艦隊を派遣した。追跡の結果、数名の反乱者が捕らえられ、後にイギリスで裁判にかけられたが、捕縛・裁判の経過や判決には様々な結果があり、当時の資料やその後の解釈によって評価は分かれている。ブリー自身は裁判手続きや公聴の場で証言を行い、反乱事件についての詳細を記した報告や著作を残した。
著作と評価
ブリーは帰国後、反乱と自らの漂流体験についての記録を公表した。これらの著述は当時の公衆や政府に大きな影響を与え、彼自身の名声と同時に論争を生んだ。評伝や一次資料では、彼の厳格さと指導力、そして航海技術は高く評価される一方、乗組員との関係処理や人間関係の面での批判も根強い。
ニューサウスウェールズ総督として
1806年にブリーはニューサウスウェールズ州の総督に任命され、植民地行政を担当した。総督として彼は海軍式の厳格な規律と官僚的手法で統治を行おうとしたが、現地の濃厚な利益集団であるニューサウスウェールズ隊(俗に言う“ラム隊”)との深刻な対立を招いた。対立は次第に激化し、1808年には同隊の一部がブリーを拘束して総督職から追放する「ラム反乱(Rum Rebellion)」が起きた。ブリーは本国へ送還され、総督職を失った。
晩年と死後の評価
帰国後もブリーは海軍での昇進を続け、最終的には上級士官に任命された。1817年にブリーは没するが、その生涯は航海者としての卓越した技能、厳格な統治者としての側面、そして劇的な事件(バウンティ号反乱、漂流、ラム反乱)によって広く知られている。歴史家や大衆文化において、ブリーは英雄視されることも、独裁的で冷酷な人物とみなされることもあり、評価は複層的である。
遺産と文化的影響
- バウンティ号の反乱とブリーの漂流は、多くの書物・戯曲・映画の題材となり、海事史の象徴的事件として語り継がれている。
- 航法・小型艇での航海技術に関するブリーの手腕は、航海史の重要な業績として学術的にも注目される。
- 植民地統治と軍の関与をめぐる議論において、ブリーのニューサウスウェールズ総督としての経験はしばしば参照される。
まとめ:ウィリアム・ブリーは、その厳格さと航海術によって歴史に名を残した人物であり、バウンティ号反乱という劇的な事件を通じて世界的に知られるようになった。彼の行動と性格は賛否両論を生み、今日でも学術・文化の両面で関心を集め続けている。


