第二次世界大戦におけるフランス戦は、一般に「フランス陥落」と呼ばれる出来事で、1940年5月10日から始まったドイツの侵攻と占領を指します。ドイツは西方での短期間かつ決定的な攻勢によって、従来の戦略予想を覆し、連合軍を圧倒しました。
作戦の経過と主要な出来事
侵攻は大別して二段階で進行しました。最初の段階は、ドイツ側の作戦名で語られるフォールゲルブ(英語名:ケースイエロー)です。ドイツの機甲戦車部隊が中心となり、ベルギーに進出した連合軍を包囲するため、予想を裏切ってアルデンヌ山脈を急襲して突破線を切り開きました。この突破により、北方の連合軍前線は分断され、連合軍の後退と混乱を招きました。
この結果、イギリス遠征軍(BEF)を含む多くの部隊が包囲されましたが、海上からの大規模撤退作戦であるダイナモ作戦により、約34万人(約338,000人)がダンカークから救出され、イギリスへ帰還しました。とはいえ多くの装備は放棄され、連合軍の地上戦力は大きな打撃を受けました。
第2段階は6月5日から始まったフォールロート(英語:ケースレッド)で、ドイツ軍はマジノ防線を周回し、フランス本土への総攻撃を行いました。同時に、イタリアは1940年6月10日にフランスに対して宣戦布告し、南東部への小規模な侵攻を開始しました。
フランス政府は非常事態の中で首都を退去し、パリをボルドーに向けて移しましたが、ドイツ軍は6月14日にパリを占領しました。6月22日にコンピエーニュで署名された休戦協定(降伏文書)は発効し、形式上は6月25日から効力を持ち、フランスは戦闘を停止しました。
占領体制とヴィシー政権
休戦後のフランスは、北部・西部がドイツの占領地、南部東端がイタリアの占領地、そして南部中央にヴィシーフランスと呼ばれる自治的だが実質的にドイツの影響下にある衛星政権の領域に分割されました。ヴィシー政権は1940年7月に成立した保守的・権威主義的政権で、当初は正式な主権を維持する形をとりましたが、ドイツとの協力(コラボラシオン)が進みました。
当初は南部(自由地域/ゾーヌ・リーブル)はヴィシー政府の統治下に残されましたが、1942年11月に連合軍の北アフリカ上陸(連合国復帰へ向けた動き)を受け、ドイツ・イタリアは南部地域まで全面的な占領(オペレーション・アントン)を実施しました(1942年11月11–12日)。以後、フランスの自治は著しく制限され、1944年の連合軍による解放までドイツの支配下に置かれました。
被害・影響とその後
- 人的・物的被害:戦闘と占領により民間人・軍人ともに多大な被害を受け、都市や産業基盤が破壊されました。正確な死傷者数は資料によって差異がありますが、フランス軍の戦死・負傷、民間人の犠牲は数万〜十数万規模に上りました。
- 戦略的影響:フランスの崩壊は枢軸国にとって大きな戦略的勝利であり、ドイツは西ヨーロッパにおける支配を確立して英仏海峡での支配力を強めました。一方でイギリスは孤立を免れ、チャーチルの下で抵抗を継続しました。
- 政治的影響:ヴィシー政権の成立、協力と抑圧、反ユダヤ的政策(ユダヤ人排斥法など)、およびフランス国内でのレジスタンス運動の形成と成長が、この期間の重要な特徴です。
- 撤退と解放:ダイナモ作戦による約34万人の撤退は戦略的に重要でした。フランス本土は1944年6月6日のノルマンディー上陸(D-Day)以降に連合軍が本格的に進攻し、1944年8月25日にパリが解放されるなどしてドイツ支配から脱却しました。
総括
1940年のフランス戦は、近代戦における機動戦(ブリッツクリーク)と予想外の戦術的突破がいかに戦局を一変させるかを示した典型例です。軍事的にはドイツの迅速な勝利となりましたが、政治的・社会的には長期にわたる占領、抵抗、そして戦後復興へと続く複雑な流れを生みました。