概要
三国協商は、20世紀初頭の最初の数年間に成立した、イギリス、フランス、ロシア帝国のあいだの了解に対して一般に用いられる名称である。もともとは正式な条約ではなく外交上の合意の集まりだったが、この協商は、長く続いた対立を和らげ、変化するヨーロッパの勢力均衡のなかで相互の安心感を与えることを目指した。用語はしばしば三国協定と訳され、構成国としては主にイギリス、フランス、ロシア帝国が挙げられる。
成立と性格
この協商は段階的に形成された。イギリスとフランスは英仏協商によって植民地をめぐる多くの対立を解消し、さらに1907年にはイギリスとロシアが英露協商を結んだことで、三国間の了解が生まれた。各合意は、単一の拘束力ある軍事同盟を作るのではなく、個別の外交問題や領土問題を扱うものだった。この枠組みは、ドイツの拡張を抑えること、交易路を守ること、植民地保有を維持することという共通の戦略的利益に支えられていた。やがて、他国も協商諸国とより緊密な関係を築き、日本、アメリカ合衆国、スペインとの非公式な結びつきも見られたが、これらの関係の強さは一定ではなく、正式な三国の中核には含まれなかった。
第一次世界大戦での役割
1914年に第一次世界大戦が始まると、三国協商の取り決めは、連合国として知られる対立側陣営の外交的基盤となった。当初は厳密な意味での軍事同盟ではなかったが、戦争の拡大にともない、協商諸国は動員と作戦を調整した。彼らは中央同盟国、すなわち主としてドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア(イタリアは1915年に陣営を変更するまで)に対抗し、これらはまとめて三国同盟または中央同盟国と呼ばれることが多い。戦争の勃発によって、イギリス、フランス、ロシアのあいだの了解は、実際の軍事協力へと変わっていった。
発展、危機、変化
同盟体制は、出来事の圧力のもとで変化した。イタリアは名目的には中央同盟国側の結びつきを離れ、1915年には協商側として戦った。一方、1917年のロシア革命は、戦争終結前に帝政ロシアをこの陣営から離脱させた。イギリスとフランスの軍事的協力は、ロシアの離脱後も続いたが、1940年の枢軸国の侵攻によって状況が一変し、ナチス・ドイツが西ヨーロッパの大部分を制圧して政治地図を塗り替えた。これらの年を通じて、三国協商は、状況と国益に応じて、部分的には政治的了解、部分的には軍事的提携として機能した。変化する忠誠関係や新たな参加国は、戦前および戦時の外交が柔軟で実利的であったことを示している。
意義、重要性、特筆点
- 三国協商は、イギリスとフランスの植民地摩擦を緩和し、1914年以前の二国間危機の可能性を下げた。
- これは、ドイツの外交的孤立に対する外交上の重みづけとなり、ドイツ帝国が同盟を重視し直す流れに対抗した。
- 正式な防衛条約とは異なり、協商は自動的な軍事義務ではなく、協議と共通利益に依拠しており、この違いが戦争初期の判断を形づくった。
- 第一次世界大戦のあいだに広範な国家連合へと拡大したことは、外交的合意が外的圧力のもとで戦時同盟網へ変化しうることを示している。
三国協商は、中央同盟国への対抗として語られることが多いが、最も適切には、実利的で変化し続ける関係の集合として理解されるべきである。これは対立の安定化を目的とする仕組みとして始まり、第一次世界大戦における連合国側の外交的支柱として終わった。その影響は、20世紀半ばにかけてヨーロッパ外交と世界の同盟関係に及んだ。