アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton, January 11, 1755 - 1804年7月12日)は、政治家、政治理論家、経済学者である。アメリカ合衆国の建国の父の一人であり、米国初の財務長官であった。国立銀行を創設したことで知られ、連邦政府の強化と市場経済の基盤づくりに大きな影響を与えた。カリブ海に浮かぶネビス島で生まれたハミルトンは、幼少期に家族の死や経済的困難を経験し、やがてニューヨークに移り住んで教育を受け(後のキングス・カレッジ=現コロンビア大学に在籍)、頭角を現した。アメリカ独立戦争が始まると、ハミルトンは大陸軍に従軍し、やがてジョージ・ワシントン将軍の側近だった。戦後は弁護士・実業家として活動し、1780年代にはニューヨークで銀行設立や経済政策の立案に関わった。アメリカ合衆国憲法の起草者の一人であり、ジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイとともに、新憲法を支持する「連邦主義者論文」を中心執筆し、連邦政府の強化と行政の必要性を説いた。
財務長官としての主要業績
ワシントン政権下でハミルトンは財務長官に就任(1789年〜1795年)し、アメリカの近代的な金融システムの構築に貢献した。彼の主要な政策には次のようなものがある。
- 公的債務の整理(Funding and Assumption):連邦政府が革命戦争での国家債務と各州の戦時債務を引き受け、信用を確立することで国家財政の基盤を強化した。
- 第一合衆国銀行(First Bank of the United States)の設立(1791年):中央銀行的な役割を担う機関を設立し、通貨の安定化と信用供給を目指した。
- 歳入制度の整備:関税や国内の消費税(例:ウィスキー税)を導入して連邦収入を確保し、その結果として1794年のウィスキー反乱の鎮圧に関与した。
- 産業振興策の提唱:1791年の「製造業に関する報告(Report on Manufactures)」で、関税保護や奨励策による産業育成を主張した。
- 海上治安の整備:租税徴収や沿岸警備のためのレベニュー・カッター(後の沿岸警備隊の前身)創設に関与した。
政治的立場と対立
ハミルトンは強い中央政府と商工業中心の経済を支持し、これに対して農本主義と州権重視を唱えたトーマス・ジェファーソンらと激しく対立した。ハミルトンの政策は、財政的な安定と急速な経済発展を促した一方で、政府の権限拡大や金融エリートとの結びつきとして批判も受けた。彼は連邦党のリーダーとして政党政治の形成にも深く関与し、外交では英国寄りの実利的立場をとることが多かった。
経歴のその後と晩年
財務長官退任後もハミルトンは弁護士・政治家として活動を続け、ニューヨークの公共・私的な事業に関与した。1790年代後半には政敵との対立が激化し、1800年の大統領選では連邦党側で重要な役割を果たした。1801年には新聞『New-York Evening Post』を創刊するなど、政治的・思想的な影響力を維持した。私生活ではエリザベス・“エリー”・スキューラー(Elizabeth Schuyler)と結婚し、子供をもうけた。
決闘と最期
1804年、政治的・個人的対立を続けていたアーロン・バーとの間で決闘が行われ、ハミルトンは致命傷を負った。決闘で重傷を負った後、ハミルトンは数時間のうちに亡くなり(決闘は1804年7月11日に行われ、死亡は7月12日)、アメリカの政治史に大きな衝撃を与えた。
評価と遺産
今日、ハミルトンは初期アメリカの最も重要な指導者の一人とみなされている。強力な中央政府と安定した金融制度を構築した業績は、近代アメリカの経済発展の基礎を築いたと評価される。一方で彼の政策は政党分裂を生み、憲法解釈や政府権限の在り方をめぐる論争を引き起こした。
文化的な面でもハミルトンの名は広く知られており、近年ではリン=マニュエル・ミランダのミュージカル「Hamilton」によって再び注目を浴びた。アメリカの10ドル札にはハミルトンの肖像が描かれているなど、公共の記憶にも残り続けている。