ジャン=ポール・サルトル
ジャン=ポール・シャルル・アイマール・サルトル(1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランスの実存主義哲学者、小説家、劇作家、脚本家、批評家である。1964年にノーベル文学賞を受賞したが、「作家は自らを制度化することを許してはならない」と言って受賞を拒否した。マルクス主義者であり、無神論者であった。
サルトルの生涯
サルトルは、フランスのパリに生まれた。エリート(高級)教育機関であるエコール・ノルマル・シュペリウールで哲学を学ぶ。1929年、哲学の博士号を取得。1929年から1931年までフランス陸軍に所属。
1929年、エコール・ノルマルで、ソルボンヌ大学で学んだシモーヌ・ド・ボーヴォワールに出会う。彼女はその後、著名な哲学者、作家、フェミニストとなる。二人は切っても切れない、生涯の伴侶となった。1938年、サルトルは「La Nausée(吐き気)」という小説を書いた。この物語は、実存主義の考え方を説明している。実存主義とは、人間の自由についての考え方である。
1939年、サルトルはフランス軍に徴兵される。フランスはドイツと戦争状態にあった。ドイツがフランスに侵攻したからである(第二次世界大戦)サルトルは1940年にドイツ軍の捕虜となり、サルトルは9ヶ月間収容所で捕虜として過ごすことになった。サルトルは1941年に収容所(牢屋)から解放される。その後、彼は再び教師として働き始めた。メルロ=ポンティ、ジャン=トゥーサンとドミニク・デサンティ、ジャン・カナパなど他の作家や思想家と親交を深めた。
1943年、サルトルは『L'Être et le Néant』(存在と無)という哲学(思考法)についての本を書きました。この本の中でサルトルは、人が社会(あるいは国)のルールに合わせようとしすぎるとき、人は本当の意味で自分自身の意思決定をしていないのだと言った。そして、人生は役に立たない災難であると結論づけた。
1945年、サルトルは「レ・タン・モダン」という新聞を創刊し、政治、芸術、文学に関する記事を掲載した。また、『自由への道』という小説の執筆も始めた。1946年、サルトルは哲学(考え方)に関する本『実存主義はヒューマニズムである』を書き、実存主義を説明した。
1950年代から1960年代にかけて、サルトルは政治に関わるようになる。サルトルは、フランスが多くの兵士を抱えていたアルジェリアからフランスは去るべきだと言った。1960年代には、サルトルはベトナム戦争が悪いと言った。1960年、彼は『弁証法的理性批判』を書いた。1960年代、サルトルは、同じく共産主義を信奉するルイ・アルチュセールと多くの論争を繰り広げた。
1980年、肺水腫のためパリで死去。遺体はパリのモンパルナス・シメティエールに埋葬された。葬儀には5万人が参列した。