ムハンマド・アリ・パシャ(Muhammad Ali Pasha、1769年3月4日 - 1849年8月2日)は、オスマン帝国軍のアルバニア人指揮官。ヴァーリとなり、エジプトとスーダンのケダイブを自称した。生誕地は現在のギリシャ領カバラ(Kavala)付近とされ、出自はアルバニア系であると伝えられている。ナポレオンの遠征終結後、オスマン帝国がエジプト再支配を進めるなかで頭角を現し、最終的に独自の統治体制を築いた。
権力掌握の経緯
当時のエジプトは、オスマン帝国の支配下にあったが、実質的にはマムルク勢力とオスマンの官僚が混在する不安定な状態だった。フランス軍の撤退後に生じた権力の空白(アレクサンドリア降伏は、の影響を含む)を背景に、ムハンマド・アリは忠誠心の強いアルバニア人部隊を武器として政治力を拡大した。1805年、カイロの有力者たちの支持を受けてアフマド・フルシッド・パシャ(当時のワーリ)が退位させられ、ムハンマド・アリが新たなワーリに迎えられた。
マムルークの支配力は依然強大であり、権力基盤を固めるためにムハンマド・アリは1811年にカイロの城塞でマムルークの有力者を招いて一斉に討ち取り(いわゆるマムルーク虐殺)、その後残党を追討してエジプトにおける旧勢力を壊滅させた。
改革と近代化
ムハンマド・アリは自らを近代的な民族主義者とは位置づけていなかったが、軍事・行政・経済・教育・産業の各面で大規模な近代化政策を展開した。主な施策は次のとおりである。
- 軍事改革:ヨーロッパ式の常備軍を整備し、訓練や兵器製造を近代化した。ヨーロッパ人の教官を招聘し、徴兵制度や近代砲兵・歩兵を導入して、従来の騎兵中心の軍隊を根本から改編した。
- 経済・産業政策:綿花栽培の奨励や輸出拡大を図り、国家による独占経営や工場建設(織物、製鉄、武器、製糖など)で工業基盤を整えた。また税制や徴収制度の整備を進め、国家収入の安定化を目指した。
- 教育・人材育成:西洋式の学校や医学校を設立し、留学生を欧州へ派遣して技術・軍事・行政の専門人材を育成した。印刷・測量・土木技術などの導入も進められた。
- 行政の中央集権化:地方官制の再編と官僚機構の整備を行い、有力な土地所有者や地方勢力の力を削いで中央集権的な統治体制を構築した。
軍事遠征と領土拡大
ムハンマド・アリとその息子・将軍たちは積極的に周辺地域へ軍を進め、次のような遠征を行った。
- アラビア半島:1811年以降、ワッハーブ派の勢力に対する遠征を行い、ヒジャーズ(メッカ・メディナ含む)を一時支配下に置いた。
- スーダン征服:1820年代からスーダン南部へ軍を派遣して征服を進め、奴隷や人材を軍・労働力として活用することで経済基盤を強化した。
- レヴァント(シリア・パレスチナ)征服:1831–1833年、息子イブラヒーム・パシャの指揮でシリア方面に進攻し、オスマン本国と衝突した。1839年にはオスマン軍がネジブで敗れ、ムハンマド・アリ側の優勢が際立ったが、英・欧州列強の介入により最終的には1840年の国際外交によってこれらの領土を放棄させられた。
外交と大国の介入
ムハンマド・アリの領土拡大と軍事的成功はオスマン帝国中枢と欧州列強の関心を引き、特にイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン(後にドイツ)などが介入した。1840年のロンドン協定などの国際的圧力により、ムハンマド・アリはシリアなどの獲得領を返還せざるを得なかった代わりに、1841年にオスマン帝国から世襲的なワーリ(地方統治者)としての地位が正式に認められることになった。これにより彼が築いた王朝は、その後1952年のエジプト革命まで続くこととなる。
統治の性格と社会的影響
ムハンマド・アリの統治は近代化を志向する一方で、強権的で中央集権的、そしてしばしば苛烈でもあった。重税や徴用(軍・労働力の動員)、時には強制労働や奴隷の利用も行われ、農村や民衆には負担が強いられた。だが同時に、近代的な行政や教育、病院・造船所・工場などインフラ整備はエジプト社会の長期的な変化を促した。
晩年と後継
ムハンマド・アリは1848年に主要な息子イブラヒーム・パシャを失い、その翌年の1849年に死去した。彼の直系の後継は孫のアッバース・ハイルミー(アッバース1世)が継承し、以後ムハンマド・アリ朝は数世代にわたりエジプトとスーダンを支配した。
評価と遺産
ムハンマド・アリは「近代エジプトの創始者」と広く評される。近代的軍隊と官僚機構、産業基盤、教育制度の種を蒔いた点で、後のエジプト近代化に決定的な影響を与えた。しかしその改革は外圧と財政的制約のもとで推進されたため、民衆への負担や専制的色彩も強く、功績と問題点の両面を併せ持つ指導者であった。


