ベネディクト15世:第259代ローマ教皇(1914–1922)と第一次世界大戦
ベネディクト15世(第259代ローマ教皇)の生涯と第一次世界大戦下での平和外交・人道支援、その評価と歴史的影響を詳述する記事。
ローマ教皇ベネディクト15世(ラテン語:Benedictus PP.XV; 伊: Benedetto XV, 1854年11月21日 - 1922年1月22日)は、ローマ・カトリック教会のイタリア人司祭で、1914年から1922年に亡くなるまでの第259代教皇である。
彼の教皇職は、第一次世界大戦によって大きく影を落とされた。
生い立ちと司祭としての経歴
出生名はジャコモ・デッラ・キエーザ(Giacomo della Chiesa)。1854年にジェノヴァ近郊で生まれ、教皇庁での諸職を経て司祭としての任に就いた後、教会内で要職を歴任した。1907年に枢機卿に任命され、同年ボローニャ大司教に就任して教区行政に携わった。
教皇選出と初期の方針
第一次世界大戦開戦直後の1914年、教皇ピウス10世の死去を受け、コンクラーベにより1914年9月3日に教皇に選出された。教皇名をベネディクト15世と定め、就任直後から戦争と人道問題に関心を向けた。1914年11月1日には戦争の惨禍を嘆く教書 Ad beatissimi Apostolorum を発表し、早期和平を呼びかけた。
第一次世界大戦と和平努力
ベネディクト15世の教皇職は第一次世界大戦によって最大の試練を迎えた。教皇は交戦国のどちら側にも与せず中立の立場をとり、人道的救済と和平仲介に尽力した。1917年には主要交戦国に対して和平提案(いわゆる「教皇の和平ノート」)を提示し、無併合・無賠償、領土回復や被害者救済、信教の自由と少数民族の権利尊重などを求めた。この提案はどの陣営からも満足されるものではなかったが、教皇庁が平和のための独自の外交努力を継続する姿勢を示した。
- 戦時中、教皇庁は捕虜や難民の救援、家族の安否照会、医療・食料援助などの人道活動を組織的に展開した。
- 教皇は赤十字や各国カトリック団体と協力して救済事業を進め、多数の捕虜交換や民間人救済を仲介した。
教会法の編纂とその他の業績
ベネディクト15世は教会内部の制度整備にも注力した。長年の準備を経て、教会法の体系化を進め、第一次世界大戦中の1917年には最初の包括的な教会法典(Codex Iuris Canonici、いわゆる1917年法典)を公布するに至った。この法典はカトリック教会の法制度を統一し、その後数十年にわたって教会法の基礎となった。
また、戦後の復興と和解に向けた教皇庁の外交や社会問題への関与を強め、宣教事業や各国との関係調整にも取り組んだ。1920年にはジャンヌ・ダルク(ジャンヌ・ダルク、聖ジョーン・オブ・アーク)を列聖するなど、教会史上重要な典礼上の決定も行った。
評価と遺産
ベネディクト15世は「戦争の教皇」とも評されることがある。戦争への公的な対応では中立と人道支援を貫いたため、一部からは消極的だと批判される一方で、無差別な暴力や飢饉に苦しむ民衆を救済するための実務的な努力は高く評価されている。教会法の編纂や被災者救援、戦後の和解志向は彼の遺産として後世に残った。
晩年と死去
ベネディクト15世は1922年1月22日にローマで死去し、教皇ピウス11世によって継承された。短くも激動の時代にあって、和平と人道を訴え続けたその姿勢は、当時の国際政治と教会史において重要な位置を占めている。
プリースト
デラ・キエーザは、1878年12月21日に司祭に叙階された。
ビショップ
カーディナル
1914年5月25日、ジャコモ・デラ・キエーザは枢機卿に任命された。
ポープ
1914年、デラ・キエーザ枢機卿がローマ法王に選出され、ベネディクト15世と名乗ることになった。
ベネディクトによりジャンヌ・ダルクが列聖される。
1918年、教皇ベネディクトは、1919年のパリ講和会議に参加するよう懇願したが、除外された。
ベネディクト15世は、「キヤノン法」の制定に貢献した。
ベネディクト15世は、イタリア王国がローマを手にして以来、4人目のローマ法王である。
死と遺産
ベネディクト15世は1922年1月初旬に肺炎(インフルエンザ)に罹患した。1922年1月22日、死去。イタリア政府は国旗を半旗にし、ベネディクト15世はローマ教皇として初めてこのような形で追悼された。
2005年、ローマ法王ベネディクト16世は、「ベネディクト」という名前を選んだ理由をこう語っている。
「私は、激動の戦時下において教会を導いた勇気ある平和の預言者である教皇ベネディクト15世を思い出します。彼の足跡を辿りながら、私は民族間の和解と調和に奉仕する務めを果たします。"
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