オスカー・フィンガル・オフラハーティー・ウィルス・ワイルド(1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランドの作家、詩人、劇作家である。ドリアン・グレイの絵』、戯曲『サロメ』『真面目が肝心』『理想の夫』『ウィンダミアの扇子』を執筆した。
ワイルドはバイセクシャルだった。彼は結婚しており、二人の子供がいた。年下の男性、アルフレッド・ダグラス卿との不倫が原因で失脚した。
生い立ちと教育
ワイルドはアイルランドのダブリンで生まれ、学業成績に優れて育った。トリニティ・カレッジ(ダブリン)を経て、オックスフォード大学のマグダレン・カレッジで学び、古典や美学を研鑽した。在学中から優れた筆才を示し、文学賞も受賞した。オックスフォードではウォルター・ペイターら美学派の影響を受け、後に美のための芸術(Aestheticism)運動と結びつく。
作家としての活動と代表作
ワイルドは短編、詩、批評、戯曲、長編と多岐にわたる作品を残した。独特のウィットに富んだ警句(エピグラム)や逆説的な表現、社会風刺で知られる。
- 小説:『ドリアン・グレイの絵』(The Picture of Dorian Gray、1890年)。美と道徳、若さの永続というテーマを扱い、刊行当初は道徳的非難も受けた。
- 戯曲:『ウィンダミアの扇子』『理想の夫』『真面目が肝心』(The Importance of Being Earnest)などの風刺喜劇は、機知に富んだ台詞と社会の偽善を鋭く突く構成で高く評価される。
- 詩・その他:詩作や批評、短編(例:『幸福な王子』などの童話風短編)も多く、幅広い読者層を持った。
- 獄中作:服役後に書かれた長詩『Reading Gaol(レディング監獄の歌)』(1898年)は刑務所体験を基にし、同情と反省の念を示す作品である。
同性愛スキャンダルと裁判
ワイルドは1884年にコンスタンス・ロイドと結婚し、二人の息子(シリル、ヴィヴィアン)をもうけたが、19世紀末の当時の社会規範に反する男性との関係も持っていた。特にアルフレッド・ダグラス(通称「ボジー」)との親密な関係が注目される。
1895年、ダグラスの父であるクイーンズベリー公爵がワイルドを公然と非難したことを受け、ワイルドは名誉毀損(誹謗)で公爵を訴えた。しかし訴訟の過程で公爵側がワイルドの関係を示す証拠を提示し、名誉毀損訴訟は取り下げられた。すると検察は当時の刑法に基づきワイルドを「gross indecency(重大な非行)」で起訴し、1895年に公開裁判で有罪となった。彼は禁固2年、ハード・ラボア(拘役)の判決を受け、服役中に深刻な健康被害を被った。
服役後の晩年
1897年に出獄したワイルドは社会的地位と財産を失い、イギリスを離れてフランスへ移住した。以後は主にパリで暮らし、友人や支援者の助けを受けながら生活した。署名を変えて「Sebastian Melmoth」という仮名を使うこともあった。1898年には服役体験を詩にした『レディング監獄の歌』を発表した。
1900年11月30日、パリで肺炎も含む健康悪化により46歳で死去し、遺骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
作風と評価・影響
ワイルドの作品は機知に富んだ台詞、形式へのこだわり、社会風刺、美学的追求が特徴で、ヴィクトリア朝イギリスの道徳に挑戦した点で注目される。生前はスキャンダルで評価が低下した時期もあったが、死後にはその文学的価値が再評価され、20世紀以降の文学や演劇、さらにLGBTQ+の歴史において象徴的な人物とみなされている。
主な年表(抜粋)
- 1854年:ダブリン生まれ
- 1881–82年:アメリカでの講演旅行など活動を開始
- 1890年:『ドリアン・グレイの絵』刊行
- 1895年:クイーンズベリー公爵との法廷闘争、同年に有罪判決・投獄
- 1897年:出獄後フランスへ移住
- 1900年:パリで死去
ワイルドはその短い生涯で多くの傑作を残し、独特の美意識と辛辣なユーモアで今日でも広く読まれ、上演され続けている。彼の言葉や一節は今なお引用されることが多く、文学史上重要な位置を占めている。


