1861年4月15日、アメリカ連合国(南部連合)軍によるサムター要塞攻撃(実際には襲撃は4月12日から始まり、守備隊は13日に降伏した)の直後、エイブラハム・リンカーン大統領は90日間、7万5千人の志願兵を招集する旨の大統領宣告を出した。この招集は、名目上は忠実なアメリカ合衆国の州の民兵を連邦軍に編入する形で行われたもので、のちに続く大規模な動員と正式な戦争状態への移行を象徴する出来事となった。これが一般に言われるように、アメリカ南北戦争の本格的な始まりと見なされている。

招集の法的・制度的背景

リンカーンが採った「7万5千人、90日間」という制限は、当時有効だった18世紀後半に制定された法律(当時の民兵法)に基づくものであった。これは、連邦が緊急時に各州の民兵を短期間召集する手続きを規定したもので、必ずしも大規模な内戦を見越したものではなく、当初は短期に事態を鎮静化できるとの見通しに立った措置だった。そのため、人数や期間はいずれも限定的であり、実際には長期の戦闘や大量動員に対応するには不十分であった。

招集が引き起こした反応と影響

大統領の召集は北部各州で迅速な動員を促し、多数の志願兵や民兵隊が名乗りを上げた一方で、南部ではこれをさらなる敵対行為と受け止める声が強まり、バージニア州などのいくつかの上南部州が連邦離脱(南部連合への合流)を決定するきっかけともなった。具体的には、リンカーンの呼びかけの後にバージニア(4月17日)、アーカンソー(5月6日)、テネシー(5月7日)、ノースカロライナ(5月20日)などが脱退を決定した。

また、当初の90日制は短期戦の想定を反映していたが、戦闘が長期化するにつれて、北軍・南軍ともにより長期の志願兵募集や徴兵制度の導入を余儀なくされた。初期の志願兵部隊は愛国心にあふれていたものの、装備・訓練・司令系統の面で課題が多く、戦争序盤から補強と再編が続いた。

まとめ

要するに、リンカーンによる1861年4月15日の7万5千人招集は、法的には既存の民兵法に則った短期動員であったが、その政治的・軍事的影響は甚大で、南北の対立を決定的にし、国家規模の内戦へとつながる重要な転換点となった。