スターリングラードの戦いは、第二次世界大戦中にナチスドイツとソビエト連邦の間で行われた大規模な戦闘で、両軍はスターリングラードの都市支配を巡って激しく争いました。戦闘は1942年7月17日から1943年2月2日まで続き、ドイツ軍の南方攻勢の終焉を示す節目となったため、第二次世界大戦の転換点の一つと見なされています。ヒトラーはこの敗北を自らの計画の重大な挫折と受け止め、戦争の流れに大きな影響を与えました。街の包囲と長期にわたる市街戦の中で、補給不足や極寒により兵士や民間人は、ネズミやネズミを食べ、さらには共食いにまで及んだという報告が残っています。
地理的・戦略的意義
スターリングラード(現在のヴォルゴグラード)は、ヴォルガ川沿いの重要な工業都市でした。ヴォルガ川は南北を結ぶ大きな輸送路であり、ここを抑えることはソ連南部やカフカスの油田への補給線を断つ上で戦略的に重要でした。ヒトラーはまた、この都市がソ連の指導者ヨーゼフ・スターリンにちなんで命名されていることも利用して、政治的・宣伝的な目的からも占領を重視しました。
攻勢から市街戦へ
1942年6月、ヒトラーは南方に対する大規模攻勢を開始(いわゆる「夏季攻勢」)し、7月末にはドイツ軍がスターリングラードに到達しました。ドイツ空軍は爆撃と大砲で市街地を徹底的に破壊し、広域にわたって瓦礫の山を作り出しました。この瓦礫はむしろ防御側の隠れ場となり、ソ連軍の狙撃兵や小規模部隊がドイツ軍に大きな損害を与える原因となりました。市街地では工場地区、穀倉、バリカディ、ママエフ・クルガン(丘陵)などが激戦の舞台となり、家屋や地下壕をめぐる白兵戦・近接戦闘が続きました。両側の指導部は大量の兵力を投入し、退却を許さない厳しい命令が出されました。ドイツ側では脱走・退却を禁じ、ソ連側でも厳罰を課す命令が出されていました(退却した者は反逆罪でその場で射殺するよう命じられた例もあります)。
包囲とウラヌス作戦
1942年11月19日、ソ連赤軍は大規模な反攻「ウラヌス作戦」を発動し、スターリングラード周辺でドイツ軍の側面と後方へ打撃を与えました。これによりドイツ第6軍を中心とする数十万の兵力が包囲(カイリング)され、外部からの救援は極めて困難になりました。ヒトラーは包囲された部隊にその場に留まるよう命じ、ドイツ空軍は補給を空輸で試みましたが、天候不良やソ連側の対空戦力、空輸能力の限界から必要量の物資を届けることはできませんでした。結果として、1943年2月までに包囲下のドイツ軍は弾薬・食料ともに尽き、多くが飢えと凍傷に苦しみました。補給を絶たれた兵士たちは、降伏する以外に生き延びる道がほとんど残されていませんでした(ソビエトは捕虜扱いに関して厳しい面があったため、凍死を選ぶ者もいたといわれます)。
降伏とその後
最終的にドイツ第6軍司令官パウルス元帥は降伏し、約9万1千人の兵士が捕虜となりました(多くはその後の戦争捕虜収容中に死亡)。この降伏はドイツにとって大きな戦力喪失であり、指揮官のパウルスはヒトラーから元帥に昇進させられましたが、史上初めて元帥が捕虜となるという屈辱的な結果となりました。
人的損失と歴史的意義
スターリングラードの戦いは長期間にわたる激戦で、戦闘・捕虜・民間人の死傷者を合わせると、推定で約160万〜200万人に上るとされています。被害はソ連側の方が多かったとされますが、ドイツ・枢軸側も極めて大きな損失を被り、これによりヒトラーが1941年のバルバロッサ作戦開始以来進めてきたソ連征服計画は重大な打撃を受けました。特にドイツ軍は南方での戦力を消耗し、最終的にソ連の油田の支配に失敗したことも、戦局を左右しました。
また、ドイツ第6軍の構成には約4分の1が現地協力者や志願兵(通称HIWI)であったとされ、市街戦の苛烈さと規模の大きさから、史上でも最大級かつ致命的な戦闘の一つとして記録されています。スターリングラードの敗北は、東部戦線におけるドイツ軍の攻勢能力を大きく損ない、以後ソ連軍が主導権を握っていく転機となりました。
この戦いはまた、近代戦における都市戦の凄惨さ、補給と機動の重要性、そして政治的決断が軍事的結果に与える深刻な影響を示す事例として、戦史や戦術研究において繰り返し検討されています。
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