概要
ホイッグ党は、政治的な派閥として始まり、のちに正式な政党へと発展した。活動の場は、イングランド、スコットランド、ついでグレートブリテン、さらにイギリス連合王国の議会へと広がった。1680年代後半から19世紀半ばまで、彼らはトーリー党と並ぶ二大勢力の一つであり、政権の主導権と首相の地位は、通常、議会多数を確保した側に移った。
起源と基本理念
ホイッグ党が台頭したのは、1688年の名誉革命へとつながる危機の時期である。彼らは絶対王権の復活に反対し、ステュアート家の請求者に結びつくカトリック王朝の成立に強く敵対した。時がたつにつれ、ホイッグ党は一連の原則へとまとまっていった。すなわち、君主に対する議会の優越、プロテスタント継承の擁護、商業・金融利益の重視、そしてプロテスタント非国教徒に対するさまざまな程度の宗教的寛容である(ただし、カトリックの影響には一般に反対し続けた)。
政権担当と公共生活
ホイッグ党が政治を主導した時期には、その立場を用いて支持者を官職に就け、制度を形づくった。18世紀初頭、1715年以後には、ホイッグ政権が官界、軍、司法、その他の地方職の多くにおいてトーリー派の在職者を交代させ、政府の機構内で影響力を固めた。さらに、イングランド国教会や法曹界への人事にも影響を及ぼし、この慣行が党派意識と対立をいっそう鋭くした。
典型的政策と社会的基盤
- 君主に対する議会的・立憲的制約の支持。
- カトリック系請求者に対するプロテスタント継承の擁護。
- 貿易と信用の拡大から利益を得る商業、銀行、都市の利害の促進。
- 国教会外のプロテスタントに対する宗教的寛容の時折の主張。
ホイッグ党の支持基盤は、議会の権力を支持する一部の地主貴族、富裕な商人、金融家、そして拡大するイギリス経済から利益を得た都市エリートから成っていた。
派閥、指導者、注目すべき時期
長く続いた他の政党と同様に、ホイッグ党の内部にも複数の流れがあった。たとえば「カントリー」的傾向と「コート」的傾向、そして後にはより改革的な翼や保守的な翼がみられた。最も長く安定した影響力を持ったのは18世紀前半であり、最も有名なホイッグ党の首相はロバート・ウォルポールである。彼は1721年から1742年まで政権を率い、しばしばイギリス最初の事実上の首相とみなされる。こうした指導者たちは、安定した政権運営と制度の固めによって特徴づけられるホイッグ優勢の時代を形づくった。
衰退と遺産
ジョージ3世の治世以後、党派政治はより流動的になった。トーリー党が時に政権に復帰し、ホイッグの連合は次第に分裂と再結集を繰り返した。19世紀半ばまでには、「ホイッグ」という呼称は、中心的な要素が新しい政治勢力に合流して自由党となるにつれて次第に姿を消した。議会の優越、プロテスタントの市民的自由、経済近代化の支持というホイッグの伝統は、その後のイギリス政治や国外の関連運動にも影響を与え続けた。
ホイッグ党の議会における役割、トーリー党との対立、18世紀の統治における位置づけについては、名誉革命やロバート・ウォルポールのような人物伝に関連する項目を参照するとよい。学術的・参考用資料では、1680年代から1850年代にかけての官職、選挙、政策変更の詳細な年表を確認できる。
関連事項としては、他国政治における後の「ホイッグ」名称の用法や、近代イギリスの政党組織の発展がある。これらは、17世紀から18世紀の対立が、より長期にわたる立憲的・政治的慣行をどのように形づくったかを示している。