1180年の出来事:主要事件・誕生・死去一覧
1180年の主要事件・誕生・死去を年表で一挙紹介。重要人物や出来事の背景と影響を分かりやすく解説。
内容
· 1 イベント
· 2名 出産
· 3名死亡
· 4 参考文献
イベント
- 日本:源平合戦の勃発(1180年) — 養和・治承期における武家勢力の対立が激化し、後白河法皇の院政体制下で起きた政治的混乱を背景に、源氏と平氏の大規模な武力衝突(源平合戦)が始まります。皇位継承争いに端を発する一連の動きとして、後の平家政権の崩壊につながる重要な転機となりました。
- 日本:以仁王(もちひとおう)の挙兵と宇治川の戦い(1180年) — 以仁王が平氏打倒を呼びかけ、源氏側と結びついて京都を離れます。その流れで、宇治川で最初の戦闘(第一回宇治川の戦い)が起き、武士の大規模な戦闘が京都近郊で展開されました。これにより地方の平氏支配への抵抗が全国的に波及していきます。
- フランス:ルイ7世の死去とフィリップ2世の即位(1180年) — カペー朝のルイ7世が没し、子のフィリップ(後のフィリップ2世、尊厳王)が王位を継承しました。フィリップ2世は在位中に王権強化と領土拡大を進め、フランス王国の基盤を確立していきます。
- 東ローマ(ビザンツ帝国):マヌエル1世の死(1180年)と政局の動揺 — 皇帝マヌエル1世が没し、若年の皇帝アレクシオス2世の即位と摂政期が始まります。これに伴い宮廷内の権力争いが激化し、後の不安定な政局の遠因となりました。
出生
- 後鳥羽天皇(ごとばてんのう) — 1180年生まれ。幼くして即位し、のちに院政や承久の乱(1221年)などで重要な役割を果たす天皇。治政と上皇としての動向が中世日本史に大きな影響を与えました。
死去
- 源頼政(または源頼政に関連する人物)・源氏側の武将関連の言及 — 1180年の戦闘で武将が戦死・自刃する事例が報告されており、武士階級の目立った死去が複数あります。特に源氏の老将や郎党の損耗が、後の勢力図に影響を与えました。
- ミナモト(源)・頼政(よります)/平安末期の武将:源頼政(やや注意) — 古い記録では頼政の最期がこのころの戦闘と結び付けられることがあります。出典により年代が異なる場合があるため、正確な日付は史料を確認してください。
- ルイ7世(フランス国王) — 在位:1137–1180年。1180年に没し、カペー朝の王位は息子フィリップ2世へ継承されました。
- マヌエル1世(ビザンツ皇帝) — 在位中に多数の対外戦争や政略結婚を通じて領域拡大を図りましたが、1180年に没し、皇帝位をめぐる不安定さが表面化しました。
参考文献
- 日本の中世史の概説書(大学教科書・専門書) — 鎌倉幕府成立前後の流れと源平合戦の経緯を扱った学術書。
- 世界史概説(西洋・ビザンツ史の入門書) — ルイ7世・フィリップ2世、マヌエル1世らの事績をまとめた参考資料。
- 国史大系・各種史料集 — 年代確定や個別事件の一次史料確認に有用。
イベント
- 4月13日 フリードリッヒ・バルバロッサがゲルンハウゼン憲章を発表
- 11月18日 フィリップ2世がフランス国王になる
- 治承3年、京都に壊滅的な旋風が吹き荒れる。
- 安徳天皇、第81代天皇の御代が始まる(1180年~1185年)。
- ポルトガルのアフォンソ1世がレオンのフェルディナンド2世の捕虜となる
- アルトワがフランスに併合される
- 持仁親王が大軍を集め、平氏・源氏の源平合戦を起こす。
- フリードリヒ・バルバロッサがザクセン公国からヘンリー・ザ・ライオンを排除し、ヴェストファーレン公国とシュタイアーマルク公国を創設する
- アレクシウス2世コムネヌス、ビザンチン帝国皇帝に就任
- ヴィテルスバッハ家がバイエルンの実権を握る
- キリジュ・アルスラン2世、ビザンツ皇帝マヌエル1世コムネヌスの死後、サラディンと同盟を結ぶ
- アレクサンダー・ネッカムがパリの講師となり、チェスについての初期の言及である「De Natura Rerum」を執筆(おおよその年代)。
- 推定。南宋の首都・杭州が、アルモハド帝国のフェスを抜いて世界最大の都市となる。
- アリゾナ州サンセットクレーターの最後の大噴火
出生数
死亡者数
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