Claiborne Fox Jackson(1806年4月4日 - 1862年12月6日)は、ミズーリ州の親連合国(南部)派の政治家で、1860年に選出され、1861年1月3日に第15代ミズーリ州知事として宣誓した人物である。ミズーリ州内の分裂と内戦勃発の過程で中心的な役割を果たし、同年6月15日に事実上退陣させられるまで在任した。その後、彼はアーカンソーに逃れて南軍側に合流し、1862年12月6日に死去した。

初期の経歴

クレイボーン・F・ジャクソンはケンタッキー州で生まれ、若年期にミズーリに移住して弁護士業や農業に従事した。州議会での活動を通じて政治家としての地位を築き、地元の有権者に支持されて民主党系の候補として州知事選に立候補した。奴隷制に寛容な立場を取り、南部諸州と同情的な政策志向で知られていた。

知事としてと分離・中立問題

1861年に就任したジャクソンは、連邦政府と南部諸州との対立が激化するなかでミズーリ州の立場をめぐり強硬な姿勢を示した。彼は州の主権と南部との結びつきを重視し、州を連邦から切り離す選択肢を排除しない姿勢をとった。一方で、当時のミズーリ内では「中立」を支持する勢力や、連邦側に強く傾く勢力も存在し、州内は急速に分裂していった。

首都セントルイス周辺での武力衝突や、州兵と連邦軍の対立(代表的な事件に「Camp Jackson」事件などがある)が発生すると、知事ジャクソンと連邦当局、並びに州内の連邦支持派の対立は深刻化した。これにより、連邦派の指導者たちは州政府の機能を封じ、事実上ジャクソンを退陣させる形になった。

退去と南軍への合流

1861年6月以降、ジャクソンは州都を離れて南部寄りの勢力と連携し、南軍側への参加を模索した。最終的に彼は州内の連邦派が権力を掌握したため逃れていき、アーカンソーに移った後、南軍と接触したとされる。以後ミズーリは公式には連邦に留まったものの、州内ではゲリラ戦や松明による襲撃など、長期にわたる内戦状態が続いた。

死去と評価

ジャクソンは1862年12月6日にアーカンソー州で亡くなった。彼の政治的行動は、ミズーリ州をめぐる激しい内乱を招いた要因の一つとして歴史的に評価されている。支持者からは州の権利と南部同情の立場を守ろうとした指導者と見なされる一方、批評家からは分裂を深め混乱を助長した責任があるとされる。

遺産

ミズーリにおけるジャクソンの役割は、南北戦争期の境界線がはっきりしない「境界州」における複雑な政治情勢を象徴している。ミズーリは名目上は連邦に留まったが、州内での南北両派の争いは戦争後も長く影響を残した。ジャクソン個人の評価は、地域や時代によって大きく分かれている。