パディ・アッシュダウン(1941–2018):英国の政治家・外交官、自由民主党党首(1988–1999)
パディ・アッシュダウン(1941–2018):元海軍士官・外交官、1988–1999年に自由民主党を率い党再建と国際外交で英国政治に影響を残した生涯を紹介。
Jeremy John Durham "Paddy" Ashdown, Baron Ashdown of Norton-sub-Hamdon GCMG CH KBE PC (1941/02/27 - 2018/12/22) は、イギリスの政治家、国際外交官である。1988年7月から1999年8月まで自由民主党の党首を務めた。
概要
パディ・アッシュダウンは冷戦後の英国政界で影響力を持った政治家であり、強い国際主義者として知られていました。軍人としての経歴を経て国政に入り、党首として自由民主党の存在感を高める一方、退任後は国際舞台で特にボスニア・ヘルツェゴビナにおける復興と統治のための高代表などの重要な役職を務めました。
軍歴と初期の経歴
若い頃に英国の海兵隊(Royal Marines)に入隊し、特殊部隊であるSpecial Boat Service(SBS)などで勤務した経験があり、これが後の安全保障や外交に関する見識の基礎となりました。軍を退いた後は公的・私的な分野での活動を経て政治の世界へ移行しました。
議会・党首としての活動
アッシュダウンは1983年に下院議員に選出され(選挙区はYeovilなど)、その後自由民主党の党首に就任しました。党首としては以下の点で知られます:
- 党の政策と組織力の強化に努め、政党としてのプレゼンスを向上させた。
- 国内政策だけでなく、国際問題・安全保障問題に関する発言を積極的に行い、党の外交的影響力を高めた。
- 1999年に党首を退任し、チャールズ・ケネディらに道を譲った。
国際的役割:ボスニア高代表など
下院を退いた後も国際舞台で活動を続け、特に2002年から2006年にかけてボスニア・ヘルツェゴビナの高代表(High Representative)を務めました。この期間、戦後復興と政治・行政の安定化、欧州統合に向けた仕組み作りを強力に推進し、国内外で論争と評価の的となる決断を行いました。
著作とメディア活動
アッシュダウンは著書や回顧録、論説を通じて政治・外交・安全保障に関する意見を発信しました。退任後も公共のフォーラムやメディアで頻繁に発言し、国際主義や民主主義の擁護者として広く認識されていました。
栄誉と評価
生前に複数の栄誉を受け、晩年には貴族院に座し(Baron Ashdown of Norton-sub-Hamdon)、国際的な政策形成や平和構築への貢献が評価されました。一方で、介入主義的と受け取られる姿勢や現地の政治勢力への強硬な対処については賛否両論がありました。
私生活と死
公的活動以外にも慈善や市民社会との関わりがあり、幅広い分野で影響を与えました。2018年12月22日に逝去しました。彼の死は英国と国際社会において多くの追悼と回顧を呼び起こしました。
遺産
パディ・アッシュダウンは、自由民主党を近代化し国際政治に強い影響を与えた政治家として記憶されています。特にボスニアでの役割は、戦後復興と国際的ガバナンスのあり方に関する議論に長く影響を残しました。
バイオグラフィー
パディ・アシュダウンは英領インドのニューデリーで生まれたが、北アイルランドで育ち、そのアイルランド訛りから「パディ」というニックネームで呼ばれるようになった。1959年から1972年まで英国海兵隊に所属し、ボルネオ島、香港、北アイルランドで戦闘を経験した。1983年の総選挙で自由党のヨーヴィル選挙区選出の国会議員に就任した。
1988年、自由党と社会民主党が合併して自由民主党が誕生すると、アッシュダウンは新党の党首に選ばれ、1992年と1997年の総選挙で党を率いることになった。1999年に辞任し、爵位と貴族院の議席の両方を与えられた。貴族院ではノートン・サブ・ハムドンのアッシュダウン男爵の称号を与えられた。2002年から2006年までボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表を務めた。
1992年、秘書と5ヶ月間の婚外恋愛をしていたことが明らかになり、多くの英国新聞がこれを詳細に暴露したため、彼の評判は若干低下した。サン』紙は、アッシュダウンの名前をもじって「パディ・パンツ・ダウン」と呼ぶ有名な見出しを掲載した。
アッシュダウンは2018年10月に「深刻な」膀胱がんと診断された。その2カ月後の2018年12月22日、サマセット州ノートン=サブ=ハムドンで、この病気で77歳の生涯を閉じた。
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