西暦3年(紀元3年)とは:ローマの執政・暦・主な出来事
西暦3年(紀元3年)の暦体系とローマの執政、主要出来事を解説。ユリウス暦・グレゴリオ暦の開始曜日やラミアとセルヴィリウスの執政年、年代命名の背景も紹介。
3年(III)は、ユリウス暦では月曜日から始まる一般的な年であった。グレゴリオ暦では水曜日から始まる。当時は「ラミアとセルヴィリウスの執政の年」として知られていた。中世初期にヨーロッパで年号の命名方法としてアノ・ドミニ暦時代が一般化したため、3年と呼ばれるようになった。1世紀の3年である。
暦について
「一般的な年」とは、閏年でない365日の年を指します。ユリウス暦は基本的に4年に1度閏年(366日)を入れる暦で、紀元後の時期もこの原則が適用されます。ただし、ユリウス暦の運用開始直後には閏年の扱いに混乱があり、後に皇帝アウグストゥスが閏年の挿入の修正を行ったという史実的経緯があります。
グレゴリオ暦との違いは、閏年の規則と長期的なずれの補正方法にあります。グレゴリオ暦は1582年の導入以降、長期的な太陽年とのずれをさらに小さくするために閏年の規則を調整しました。現代的に「グレゴリオ暦を遡って適用した場合(プロレプティック・グレゴリオ暦)」、西暦3年は水曜日始まりになります。
ローマの年の呼称(執政官年)
古代ローマでは年を数える際に執政官(コンスル)の名前で年を呼ぶ慣習がありました。本文にある「ラミアとセルヴィリウスの執政の年」という表記は、その年の執政官二名の姓名に由来する呼び方です。この方式は共和政時代から帝政初期にかけて広く用いられ、公式文書や年代記で頻繁に見られます。
歴史的背景(概況)
西暦3年の時点ではローマ帝国はアウグストゥスの統治下にあり、帝国内外で行政や軍事の整備が進められていました。地方の統治、属州行政、辺境での軍事展開などが継続して行われていた時期ですが、当年に関して特に広く知られる単一の世界史的大事件が多数記録されているわけではありません。各地の地方史や考古学資料を当たることで、より詳細な出来事や人物の動静が明らかになります。
紀年法の変遷と表記の注意
中世以降、キリスト教圏を中心にアノ・ドミニ(紀元)による年の数え方が普及し、西暦(Anno Domini)を用いて「西暦3年」と表記されるようになりました。一方、古代の資料を読む際には執政官名やゲルマニクス方式(皇帝在位年)など、当時使われた別の紀年法が用いられていることが多いため、史料を扱う際はどの紀年法に基づく表記かを確認することが重要です。
イベント
ローマ帝国
- アウグストゥスの支配が10年間更新される。
- アウグストゥスは、孫のガイウス・カエサルを養子に迎え、後継者とすることを期待した。ガイウスは総督となり、東方への特別な使命を帯びて派遣される。
- ルシウス・アエリウス・ラミア、ローマの領事となる。
- Marcus Valerius Messalla Messallinusがローマの領事となる。
ヨーロッパ
- メネアス、アテネのアルコンになる
- ドイツ5部族がマルコマンニ族の王マルボドによって統一される。この5部族の統一は、後にシレジアとザクセンとなる地域のローマに対する直接的な脅威となる。
中国
- 王莽は、息子の王莽、義弟の呂寬、魏の一族による王莽を摂政の座から引きずり降ろそうとする陰謀を阻止する。王爺と盧綰は粛清によって殺される。
出生数
- 伴彪、中国の歴史家(54歳没)。
- タルソのパウロ(67歳)

レンブラントによる「タルソのパウロ」の絵。
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