オズウィー(611年頃–670年2月15日)は、別表記のオズウィウ、古英語としても知られる北部イングランドの有力王である。若年期は混乱と流浪の時代にあり、やがて王位をめぐる争いに関わるようになる。

兄オズワルドの死後、ベルニシアの王位を継承し、やがてノーザンブリア全域の支配権を確立した。内外の有力者との対立や和解を通じて北部の統一を進め、同時にキリスト教会の整備にも深く関与した。特に664年に開催されたウィットビー会議(Synod of Whitby)では、イングランド北部の教会がローマ式の暦と慣習を採用する決定に至り、オズウィーはこの宗教的調停を主導した重要人物の一人とされる。

対外的には強硬な軍事指導者でもあった。オズウィーはメルシアのペンダをウィンウェードの戦いで破り、ペンダを討ち取った(655年とされる)。この勝利により南イングランドの多くの王に対する覇権を握り、当時の事情では7代目のブレトワルダ(諸王の上に立つ盟主)と見なされることになった。勝利の結果、オズウィーは一時的にメルシアの支配権を確保し、義理の息子であるピーダ(ペンダの息子)をクライアント・キング(従属王)として据えるなど、征服地の統治においても柔軟な方策をとった。

オズウィーは宗教政策にも熱心で、多くの修道院や教会の支援を行った。彼の治世は政治的・宗教的に転換期と重なり、北部イングランドがローマ教会の影響下に組み込まれていく過程で中心的な役割を果たした。息子エグフリス(Ecgfrith)が後を継ぎ、オズウィーの政権と宗教的遺産はその後のノーザンブリア史にも大きな影響を残した。

最後に、オズウィウは戦死ではなく自然死した珍しいノーザンブリア王の一人であり(670年2月15日没)、その平穏な死は当時としては例外的であった。彼の治世は軍事的勝利と宗教的和解の両面を併せ持ち、7世紀の英仏島における重要な転換点を形成した。