概要
広州の戦いは、第二次アヘン戦争のさなかである1857年12月28日から1858年1月1日にかけて行われた。連合した欧米勢力は、中国南部の都市広州(Canton/広州)を攻撃して占領した。広州は主要な港湾都市であり、地方行政の中心でもあった。この作戦では、フランス軍とイギリス軍が連携し、ここでは地元部隊と清朝の正規部隊を含む清軍守備隊に対抗した。
戦闘の経過
戦役は、都市を守る河川防御や砦を突破することを目的とした海上および陸上の機動から始まった。砲撃と協調した上陸ののち、連合軍は城壁に囲まれた郊外や重要な防御陣地へ前進した。抵抗の強さは地区ごとに異なり、ある場所では守備側が退却または降伏した一方、別の場所では激しい局地戦が起こった。1月1日までに、都市は欧州の同盟軍の手に落ち、同軍は広州の一部を占拠した。
背景
この戦いは、1856年から1860年にかけて続いた第二次アヘン戦争の一部である。この紛争は、中国と欧米列強のあいだで、貿易、外交関係、条約履行をめぐる対立から生じた。広州は長く南部交易の主要な出口として重要であり、清政府に対する交渉上の圧力を求める勢力にとって、象徴的にも大きな標的だった。
結果と意義
広州の陥落は清朝の脆弱さを深め、さらに連合軍の前進と外交的圧力への道を開き、1858年の天津条約につながる一因となった。都市の占領は地方行政と交易を混乱させ、また中国沿岸や河川における欧米の海軍・遠征軍の軍事力が増大していることを示した。
戦力・戦術・特徴
- 連合軍の作戦は、艦砲射撃、海上からの上陸、都市防御への歩兵突撃を組み合わせて行われた。
- 守備側は、城壁、河川砲台、地方民兵に加え、清朝の正規軍に依拠した。
- 都市戦闘と河川での作戦が特徴的であり、広州の地理条件をよく反映していた。
その後と歴史的評価
広州の占領は英仏遠征軍にとって戦術的勝利ではあったが、中国と外国との関係を大きく変えていく長期の戦争の一局面にすぎなかった。この交戦は、19世紀半ばの帝国主義戦争、港湾都市の戦略的重要性、そして中国に長期的な政治的・経済的影響を伴う条約締結を促した軍事力の不均衡を示している。