フレデリックスバーグの戦い(1862年12月11日 - 1862年12月15日)は、アメリカ南北戦争の主要な戦いの一つで、バージニア州フレデリックスバーグで行われた。北軍(ポトマック軍)を率いたのは少将アンブローズ・バーンサイド、南軍(北バージニア軍)の指揮官は将軍ロバート・E・リーである。両軍合わせて約20万人が動員され、当時としては大規模な戦闘となった点で特筆される。戦闘はラッパハノック川の渡河と、それに続く南軍の塹壕陣地に対する北軍の複数回の正面攻撃が中心であり、特にメアリーズ高地(Marye's Heights)をめぐる攻防が有名である。渡河そのものは大規模で注目されたが、「史上初の大渡河」であるという記述は誤解を招くため、当時としては大規模な河川渡渉作戦の一例であった、と整理されるべきである。

背景

1862年秋から冬にかけて、北軍はリッチモンド方面への圧力を強めようとしていた。アンブローズ・バーンサイドはマクレランやポープらの後を受けてポトマック軍の指揮を執り、迅速にラッパハノック川を越えてリッチモンド方面へ進撃する計画を立てた。計画の要点は、舟橋(ポントーン橋)を用いて大部隊を一斉に渡河させ、フレデリックスバーグを占領して南軍の背後を脅かすことであった。しかし、橋桁(ポントーン)の到着遅延や情報の錯綜、南軍の迅速な集結・塹壕構築により、北軍の有利な奇襲は失われた。

戦闘の経過

12月11日、北軍は河川の渡河を開始し市街地に進入してフレデリックスバーグを占領した。だが橋の構築と部隊の移送に時間がかかり、その間にリーは兵力を集め防御陣地を構築した。12月13日が主戦闘日となり、バーンサイドは複数の地点で総攻撃を命じた。特に南軍が高地に据えた銃座や石壁(いわゆる石壁=Sunken Road付近)に対して、北軍歩兵が繰り返し正面突撃を行い甚大な損害を受けた。南軍は塹壕と高地、熟練した伏兵配置により防御を固め、北軍の突撃を撃退した。

戦闘の特徴

  • 塹壕・高地を利用した防御:メアリーズ高地からの射撃が北軍突撃部隊を壊滅的に撃破した。
  • 都市戦の側面:フレデリックスバーグ市街地での小規模な交戦や占領があった。
  • 河川渡渉の困難さ:ポントーン橋の遅延や渡河時の脆弱さが作戦の制約要因となった。
  • 写真報道の影響:戦後の戦場写真などが戦闘の惨状を北部民衆に伝えたことでも知られる。

損耗と結果

損耗は北軍が大きく、戦闘全体での被害は資料によって差異があるが、概ね北軍約12,000人以上(負傷・戦死・行方不明を含む)、南軍約5,000人前後とされる。戦術的には南軍の勝利であり、リーの軍は守勢を維持して北軍の進撃を阻止した。北軍は大損害を受け、バーンサイドの指揮は強く批判され、翌1863年の「泥の行軍(Mud March)」の失敗を経てバーンサイドは指揮を解かれ、ジョセフ・フッカーに交代することになる。

意義と評価

フレデリックスバーグの戦いは、南北戦争における陣地戦と正面攻撃の危険性を明確に示した戦闘である。急ごしらえの橋や渡河作戦の計画が、準備不足や情報遅延によって簡単に失敗に転じうること、また塹壕と高地に守られた防御線に対する正面攻撃の被害がいかに甚大であるかが示された。戦術的には南軍の勝利であったが、戦争全体の戦略的流れを決定づけるほどの転換点とはならず、その後も両軍は長期にわたってバージニア州での主導権を巡る攻防を続けた。

参考事項:個々の部隊数や被害数の細部は史料により差があるため、具体的な数字は諸説あることに留意されたい。