ウィリアム・ブリュースター3世(1566年 - 1644年4月10日)は、1620年にメイフラワー号に乗って新世界へ渡ったイギリスの役人であり、ヨーロッパとプリマス植民地の宗教指導者でした。彼はまた、メイフラワー・コンパクトの署名者の一人でもあり、移住者たちの精神的指導者(エルダー)として長年にわたり影響力を発揮しました。
出自と初期の経歴
ブリュースターはノッティンガムシャー州スクルービーに生まれ、地元の有力な家系に育ちました。生誕地についてはイギリスのノッティンガムシャー州スクルービーと伝えられています。若いころは教養を受けるためにケンブリッジのピーターハウスに学びました。ケンブリッジは当時、イングランド国教会に改革を求める者が多く集まる大学で、そうした信条を持つ人々はやがて分離主義(Separatists)と呼ばれる宗教集団を形成しました。分離主義者はイングランドではしばしば弾圧され、場合によっては刑務所に入れられました。
スクルービー時代とオランダへの移住
成人後、ブリュースターはロンドンで働き、のちにウィリアム・デイヴィソン(Davison)の下で職務に就いた時期がありました。デイヴィソンが投獄された際、ブリュースターは故郷スクルービーへ戻り、やがて地元で郵便局長のような職を務めたとされます。スクルービーでは自邸を拠点に分離主義者の小会合を開き、信徒たちの宗教集会の中心人物となりました。1607年にはこのために短期間刑務所に入れられることもありました。
1608年、より宗教的自由が得られる場所として信徒の多くがオランダへの移住を決め、ブリュースターも仲間と共に出発しました。イギリスを無断で離れることは当時違法とされていたため、出立はしばしば秘密裏に行われました。1609年には会衆のリーダーに選ばれ、ライデンでは英語の教育や教会指導を行いました(ライデンで英語を教えた)。
ライデンでの印刷業と弾圧
ライデン在住中、ブリュースターは信徒のために宗教書を制作・配布する活動に携わり、1616年頃には印刷業に関わるようになりました。1619年、ブリュースターとエドワード・ウィンスローらは、国王ジェームズ1世(ジェームズ1世)とイングランド国教会との見解の相違を論じる宗教文書の出版に関わったと伝えられています(この件で国王は出版関係者の取締りを強めました)。その結果、当局によって印刷機は押収され、出版に関わった者たちは弾圧され、ブリュースター自身も逮捕の可能性に直面して潜伏を余儀なくされました(印刷機はイギリス大使に奪われ、協力者は逮捕された)。
メイフラワー号と新世界への出発
ライデンの多くの信徒は、すでに新世界に向けて移住する計画を進めていました。ブリュースターが潜伏している間、他の信徒たちは船や資金の手配を進め、ジョン・カーヴァーやロバート・クシュマンらが準備を取りまとめました。やがてブリュースターは脱出に成功し、クシュマンの助けで、仲間とともにメイフラワー号に乗り込むことができました。彼の妻メアリーと、息子のラヴ(Love)とレスリング(Wrestling)も乗船してプリマスへ向かいました。
プリマス植民地での役割
プリマス到着後、ブリュースターは正式な行政職には多く就かなかったものの、教会のエルダー(長老)・宗教指導者として移住者社会の精神的支柱となりました。彼は礼拝の執行、会衆の助言、教育や文書作成などで重要な役割を果たし、共同体の意思決定にも深く関わりました。メイフラワー号の乗客たちが署名したメイフラワー・コンパクトの精神にも合致する形で、ブリュースターは宗教と市政の関係に配慮しつつ共同体の安定に寄与しました。
晩年と遺産
晩年のブリュースターはプリマスで過ごし、1644年4月10日に死去しました。彼は植民地初期の宗教的・文化的基盤を築いた主要人物の一人として評価されており、後世のアメリカにおける宗教的自由や自治の先駆的な例として記憶されています。
注:本文中の一部年譜や家系に関する出典は歴史資料によって表記が異なる場合がありますが、ここではブリュースターの主要な活動と役割を中心に整理しました。



