1268年の出来事:欧州・アジアの戦争・政治・文化と主要な誕生・死去

1268年の欧州・アジアにおける戦争・政治・文化と主要な誕生・死去を年表と解説で一目で把握できる完全ガイド。

著者: Leandro Alegsa

コンテンツ

·         1イベント

o    1.1ヨーロッパ

§  1.1.1戦争と政治

§  1.1.2文化

o    1.2アジア

·         2誕生

·         3死亡数

イベント

ヨーロッパ

戦争と政治

  • タリアコッツォの戦い(1268年8月23日):南イタリアでチャールズ・ダンジュー(シャルル・ダンジュー、アンジュー家)率いる軍が、神聖ローマ帝国側の若き領主コンラディン(ホーエンシュタウフェン家の末裔)を破りました。この敗北はイタリア南部におけるホーエンシュタウフェン家の影響力を事実上終わらせ、チャールズ・ダンジューの勢力拡大につながりました。
  • コンラディンの捕縛と処刑(1268年):タリアコッツォの戦い後、コンラディンは捕らえられ、ナポリで裁判を受けた後に処刑されました。これによりホーエンシュタウフェン家の直系による王権復活の可能性は途絶え、イタリア南部政治はアンジュー朝の影響下に強く置かれることになりました。
  • 教皇クレメンス4世の死去(1268年11月29日)と長期空位:教皇クレメンス4世(在位1265–1268)が11月に没すると、教皇位は長期間空位となりました。次の教皇が選出されるまでに数年かかることとなり(1268–1271年の教皇選挙は長期化しました)、ローマ教皇庁の政治的影響とイタリア・欧州諸国との関係に不確実性をもたらしました。

文化

  • 欧州各地では大学や修道院を中心に学問(スコラ学)と写本制作が盛んで、ゴシック建築や美術も引き続き発展していました。都市の成長に伴い、地方の貴族や商人階級の文化的活動も活発化しており、口語文学(各地の言語による叙事詩や諷刺詩など)への関心も高まっていました。
  • 音楽・詩の分野ではトルバドゥールや宮廷詩人の伝統が残り、宮廷文化を通じた文化交流が継続していました。

アジア

  • アンティオキアの陥落(1268年5月):エジプトのマムルーク朝スルタン、バイバルス(バイブリースとも表記)によって十字軍国家の一角であったアンティオキアが攻略され、都市は破壊され多くの住民が殺害または捕虜となりました。この事件は十字軍国家の没落を象徴する出来事の一つで、中東におけるマムルークの覇権を強めました。
  • モンゴル帝国と東アジアの動向:この時期、クビライ・カアン(フビライ)の下でモンゴルの華北・中国支配の基盤が徐々に固まっていきました。南宋に対する軍事行動や支配体制の整備が進められ、後の元朝樹立(1271年)への布石が打たれていました(1268年はその過程の一段階にあたります)。
  • 日本(鎌倉時代)など東アジア諸国:鎌倉幕府の支配が続く中、国内では武家政権の制度整備や地侍層の台頭が続いていました。宗教面では禅宗や浄土系などが広まり、文化的にも地方文化と中央文化の交流が行われていました。

誕生

1268年に確実に記録されている「著名人物の誕生」は史料によって限られています。中世史料は出生年が曖昧なことが多く、後世の伝記や系譜で補足される場合があります。以下は注意書き付きの一般的な状況説明です。

  • 王侯や高位聖職者などの出自は比較的記録が残りやすい一方で、地方領主や学者・宗教者の正確な出生年は不明確なことが多いです。
  • 地域別に見ると、ヨーロッパでは貴族や教会関係者の誕生記録、アジアでは皇室や幕府関係の系譜記録が主要情報源になりますが、1268年に限定すると確証を持って列挙できる例は少数です。

死亡数(主な死去)

  • コンラディン(Konradin、ホーエンシュタウフェン家の後継者)(生年およそ1252年頃 — 1268年): タリアコッツォの敗北後に捕らえられ、ナポリで処刑されました。若年での死は王家の終焉を象徴しました。
  • 教皇クレメンス4世(Clement IV、本名ギー・フォルクス)(生年はおおむね12世紀末頃 — 1268年11月29日): 1268年に没し、その死により教皇庁は長期の空位状態に突入しました。これは当時の教皇選出手続きと北イタリア・フランス間の勢力均衡に関連して注目される出来事です。
  • その他:地方の領主や宗教者、文化人の死去は地域史料に散見されますが、1268年に限定して確実に広く知られる著名人は上記が代表的です。地域別の細かな注文記録や年代不確定の記録も多数存在します。

補足・解説

  • 1268年は、十字軍国家の衰退(アンティオキア陥落など)と、イタリアにおける勢力再編(アンジュー家の台頭、ホーエンシュタウフェン家の終焉)、さらに教皇権の不安定化(長期空位)といった政治的変化が重なる年でした。
  • 一方でモンゴル帝国によるユーラシアの広域支配や、中国における政権移行の前段階といった国際的な力関係の変化も進行しており、これらが次の数十年にわたる政治・軍事・文化の大きな流れを形成していきます。
  • 中世史の年表では、地方史料や年代記に基づく年次の扱いには差異があり、出来事や人物の年次については史料批判が重要です。本稿では広く受け入れられている主要な出来事を中心に取りまとめています。

イベント情報

ヨーロッパ

戦争と政治

  • 2月18日 - リヴォニアのBrothers of the SwordがRakovorの戦いでPskovのDovmontに敗北。
  • 10月29日 - ホーエンシュタウフェン家の最後の嫡出男子であるコンラディンが、政敵でありローマ・カトリック教会の同盟者でもあったシチリアのシャルル1世によって、伴侶であるバーデン侯爵フレデリック1世とともに処刑される。
  • ハンガリー王ステファン5世がブルガリアとの戦争を開始。
  • ヴェルニゲローデ郡がブランデンブルク侯爵家の属国となる。
  • ブルボン家は、クレルモン伯爵ロベールとフランスルイ9世の娘でブルゴーニュのベアトリス(ブルボン家の領主権の相続人)との結婚で初めて注目を集めます。
  • ヴェネツィアでは、有力な個人の家族の影響力を弱めるために、ドージェの選挙に新しい選挙方法が確立される。
  • 教皇クレメンス4世が死去し、その後の教皇選挙では約3年間も新教皇が決まらず、後に厳しい選挙規則が作られることになる。

文化

アジア

  • 5月18日 - アンティオキアの戦いで、十字軍の拠点であったアンティオキア公国がマムルーク朝のスルタン、バイバルスに敗れる。バイバルスはアンティオキアの街を破壊し、街の重要性を永久に失わせた。
  • 中国のクビライ・ハンのモンゴル軍との6年にわたる戦い「襄陽の戦い」が現在の湖北省で始まる。
  • キリキアで地震が発生し、約6万人が死亡。

誕生日

  • アルトワのマホート(死去 1327)
  • 中国の端宗皇帝(死去 1278)
  • フランスのフィリップ4世(死去 1314)

訃報

  • 10月29日 - シュヴァーベン公コンラートイン(処刑)(生 1252)
  • 10月29日 - バーデン侯爵フレデリック1世(死刑執行)(生誕 1249)
  • 11月29日 - 教皇クレメンス4世
  • 12月9日 - 黒ルテニアの王子、ヴァイスヴィルカス
  • バウのバラル、シチリアの大司法長官
  • ヘンリー・ド・ブラクトン(イギリスの法学者
  • サヴォイのピーター2世(生まれ 1203)


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