1860年11月6日(火)に行われたアメリカ大統領選挙は、エイブラハム・リンカーン大統領の当選が引き金となり、最終的にアメリカ南北戦争勃発のきっかけとなりました。アメリカは1850年代に奴隷制度の拡大や奴隷所有者の権利をめぐる問題で深く分裂しており、1860年の選挙はその対立が表面化した場となりました。選挙当時、奴隷制の「拡大」をめぐる争点は、特に新しい領土や合衆国西部での制度採用の可否が焦点で、北部では拡大反対、南部では保護を求める意見が強かったため、政治的な分裂が進んでいました(制度の拡大や民主党は3つの派閥に分裂したことも、この対立の表れでした)。
主要候補と党の分裂
1860年選挙には4人の主要候補が立候補しました。共和党は奴隷制度の新領土への拡大に反対する立場でエイブラハム・リンカーンを擁立しました。一方、民主党は北部(スティーブン・A・ダグラス)と南部(ジョン・C・ブレッキンリッジ)で対立し、実質的に分裂していました。さらに、旧ホイッグ党系や一部の中道派は憲法連合党(Constitutional Union)を結成し、ジョン・ベルを擁立しました。これらの分裂により、南北で支持が分散し、候補者間の票割れが起きました(原文の記述どおり、各派閥はそれぞれ共和党の候補を倒すのに最も適していると考えていました)。
選挙結果とその意味
選挙の最終結果は、リンカーンが選挙人団で圧勝し、実際には全南部州の多くでほとんど支持を得られなかったにもかかわらず当選を決めました。得票状況(概数)は以下の通りです。リンカーン:約39.8%(選挙人180票)、スティーブン・A・ダグラス:約29.5%(選挙人12票)、ジョン・C・ブレッキンリッジ:約18.1%(選挙人72票)、ジョン・ベル:約12.6%(選挙人39票)。リンカーンは南部ではほとんど票が入らず、支持基盤は主に北部と西部の自由州にありました。これにより、民主党の分裂が共和党にとって有利に働き、リンカーンの当選を可能にしました。
当選後の反応と南北戦争への道
リンカーン当選を受けて、南部の多くの指導者や住民は連邦政府が奴隷制度の保護を放棄するのではないかと恐れ、直ちに行動を起こしました。南カロライナ州は1860年12月20日に最初に脱退(secession)を宣言し、これに続いて他の南部諸州も相次いで脱退していきました。1861年2月には脱退した州が集まりは、アメリカ連合国(Confederate States of America)を樹立しました。リンカーンは1861年3月に大統領に就任し、合衆国の存続を守ることを公言しましたが、連邦と脱退州の対立は先鋭化し、同年4月12日、サムター要塞(フォート・サムター)への攻撃をもって武力衝突が始まり、これが南北戦争の開戦となりました。
リンカーンの立場と誤解
重要なのは、リンカーン自身は就任前後において即時全土の奴隷解放を公約していたわけではなく、当面の主要方針は奴隷制度の「拡大反対」と合衆国の統一維持でした。しかし南部では、奴隷制度に対する将来的な脅威と連邦の権力強化を強く警戒しており、その不安が急速な分離行動につながりました。
歴史的意義
1860年の選挙は、アメリカの政治地図を一変させた転換点でした。共和党の台頭と民主党の分裂は第二党制の終焉を示し、奴隷制度と国家のあり方をめぐる根本的な争いが武力衝突へと発展しました。南北戦争の結果として、戦後には奴隷制度の廃止(13修正条項)や再建(Reconstruction)といった大規模な社会変革がもたらされ、アメリカ史における重要な節目となりました。



