ジョン・ブラウンのハーパーズフェリー襲撃(John Brown's raid または The raid on Harpers Ferry)は、1859年10月に起きた反乱未遂事件である。白人の奴隷制廃止論者ジョン・ブラウンが中心となり、武器を奪って南部の奴隷の反乱を促そうとしたもので、アメリカ史上で極めて重要かつ論争を呼ぶ出来事となった。
背景
ブラウンはそれ以前からカンザスでの武力衝突(いわゆる「血塗られたカンザス」)に関与しており、奴隷制度廃止のために武装蜂起を支持していた。1850年代末、北部での支援者から資金と志願者を集め、南部の奴隷を武装させることで大規模な反乱を引き起こし、奴隷制を崩壊させることを狙った。
襲撃計画と実行
ブラウンは1859年10月16日にバージニア州ハーパーズフェリーにあるアメリカ合衆国の武器庫を急襲することで、武器を奪って近隣の奴隷たちに配り蜂起を支援する計画を立てた。襲撃には約21人の隊員が同行したとされるが、実行にあたっては情報漏洩や地元住民の抵抗、支援の欠如など多くの困難があった。
経過と鎮圧
襲撃から間もなく、地元の民兵や警察が動員され、連邦政府は部隊を派遣した。ロバート・E・リー大佐が監督する形で派遣された兵力(海兵隊や陸軍の小隊)が出動し、ブラウンらは包囲・制圧された。襲撃では複数の隊員が戦死し、ブラウンを含む生存者は逮捕された。
参加者への勧誘
ブラウンは襲撃に先立ち、北部の有力な廃止運動家にも参加を呼びかけていた。例えば、マサチューセッツ州のスプリングフィールドで知り合ったハリエット・タブマンやフレデリック・ダグラスにも協力を求めたが、タブマンは当時病気で参加できず、ダグラスは計画が成功する見込みが低いとして参加を辞退した。
裁判・処刑とその後の影響
ブラウンは逮捕後、チャールズタウン(当時バージニア州)で裁判にかけられ、州に対する反逆、殺人、暴動扇動などの罪で有罪判決を受けた。ブラウンは1859年12月2日に処刑され、その処刑は北部と南部の感情を強く揺さぶった。北部では彼を反奴隷制の殉教者として評価する声が広がり、南部では極端な脅威として危機感が高まった。
歴史的評価
ジョン・ブラウンのハーパーズフェリー襲撃は、奴隷制度をめぐる南北の対立をさらに激化させ、1861年に始まる南北戦争への道を早めたとされる。評価は分かれており、武力蜂起を肯定する立場からは勇気ある行動と見なされ、法と秩序を破壊した過激なテロ行為とする見方もある。今日でもアメリカ史の重要な転換点として広く研究・議論されている。