カザール人は半遊牧民のトルコ人であった。彼らはおおむね7世紀から10世紀のCEにかけて、現在の南ロシア・カスピ海北方一帯にあたる地域にカザリア(カザール・カガナート)を形成したとされる。起源はユーラシア草原の西トルキスタン系のトルコ系諸集団にあり、中央アジアや唐の中国との接触・移動を経てこの地域に定着したと考えられている。
領域と政治体制
カザリアはヴォルガ川流域を中心に、ドン川からクリミア、さらにコーカサス周辺まで影響を及ぼした強力な政権であり、遊牧民と定住民を併せ持つ多民族国家だった。主要都市には内陸河口の拠点イティル(Atil)、Samandar、Balanjar、要塞都市のサルケルSarkel(後に東ローマ帝国と協力して築かれた)などがあり、海上・河川交通を通じて重要な交通・交易拠点となった。
国際関係と軍事
カザール・カガナートはその地政学的位置から、しばしば大帝国や周辺遊牧勢力と同盟・対立を繰り返した。特に東ローマのビザンチン帝国とは協力関係を結び、ビザンチンが西方からの脅威に対処する際の緩衝的役割を果たした。また、草原の遊牧民やウマイヤド・カリフテートの勢力、後には東方からの各勢力とも衝突や交易を行った。965年頃には、キエーヴァン・ルス(キエフ公国)のスヴャトスラフ大公らの軍事行動により、カザールの政治的独立は致命的な打撃を受け、最終的に支配体制は瓦解していった(約965–969年)。
経済と交易
カザリアは国際貿易の重要拠点だった。それは中国、中東、キエフロシアを結んだシルクロードの北側ルートやヴォルガ川を通じた交易路を掌握し、毛皮、奴隷、絹、香辛料、金銀などが取引された。河川交通と要塞都市によって交易ルートを管理し、通行税や関税で富を得た。遊牧経済と定住農業・手工業を併用することで、国家としての持続性を高めていた。
宗教と文化
カザール社会は宗教的に多様だった。遊牧民一般に広まっていたテングリズム(天神信仰)の影響が根強く、同時にキリスト教(主に正教会系)、イスラム教、そしてユダヤ教の信仰も広く見られた。支配階級が8世紀から9世紀ごろにかけてユダヤ教に改宗した可能性が高いとする史料証拠があり、特に「カザール文書(Khazar Correspondence)」に含まれるカザール王ヨセフの書簡や、当時のアラブ・ビザンチンの記録がしばしば引用される。ただし、改宗がどのように進行したか、また改宗が支配層だけに限定されたのかあるいは広範に及んだのかについては学者の間でも議論が続いている。日常的には多神教・自然崇拝とアブラハム系宗教が混在していたと考えられる。
滅亡とその後
10世紀中葉、特に965年のスヴャトスラフの対カザール遠征は国家解体の決定打となり、イティルなど主要拠点は破壊・放棄された。その後、カザール領域はキエフ・ルーシ、コーカサス諸勢力、さらには北方からの遊牧民(ペチェネグ、キプチャク=ポロフツィなど)によって分割・支配され、独立したカガナートとしての形態は消滅した。しかし、カザールの集団やその影響は周辺地域に散在していき、民族的・宗教的痕跡を残した。
遺産と議論点
- 言語・民族的側面:カザールはトルコ系の言語・文化を基盤としていたが、長年の多民族共存によりスラブ系・イラン系など周辺諸民族と混交が進んだ。
- ユダヤ教改宗の範囲:支配層のユダヤ教改宗の史料は存在するが、一般民衆が大規模にユダヤ教に改宗したという決定的証拠は乏しい。
- アシュケナージ系ユダヤ人との関連:一部の説では一部のヨーロッパ系ユダヤ人の祖先にカザール人が含まれるとされるが、近年の遺伝学的研究や歴史学的検討では、その影響は限定的であるとの結論が主流になりつつある。したがって「アシュケナージ全体がカザールの子孫である」という単純な主張は支持されていない。
- 資料と考古学:史料はアラブ・ビザンチン・ユダヤ・スラヴの各種断片的な記録に依存しており、考古学的成果と照合しつつ解釈が進められている。主要史料としては、ビザンチン皇帝の記録、アラブの旅行記・地誌、カザール王の書簡などがある。
まとめると、カザール(ハザール)とは中世ユーラシアにおいて重要な政治的・経済的役割を果たしたトルコ系政権であり、その多宗教・多民族的性格と地政学的重要性から、現代の歴史学・考古学・遺伝学の交差点で活発に研究されている主題である。解明されていない点も多く、今後の発掘や文献研究・遺伝学的解析によってさらに理解が深まることが期待される。