ヴェルナー・マグヌス・マキシミリアン・フライヤー・フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun、1912年3月23日-1977年6月16日)は、ドイツのエンジニア、科学者である。1930年代から1970年代にかけてロケットの設計に従事した。20世紀で最も重要なロケット技術者であると言う人もいる。第二次世界大戦中はナチスのために働いた。第二次世界大戦後、アメリカへ渡る。そこでNASAに勤めた。入国から10年後の1955年、フォン・ブラウンはアメリカ国籍を取得した。
宇宙へ飛び立つ最初のロケットであるV-2ロケットの開発者の一人である。また、1969年に人類を月に運んだサターンV型ロケットも開発した。
生い立ちと初期の研究
フォン・ブラウンは1912年にドイツの貴族の家系に生まれ、幼少期から航空とロケットに強い関心を示した。大学では物理学・機械工学を学び、特に液体燃料ロケットの研究に取り組んだ。1930年代にはロケット開発グループ(後のペーネミュンデ研究所)で要職を務め、弾道学や推進系の基礎を築いた。
V-2ロケットの開発と戦時中の活動
フォン・ブラウンは、世界初の大型弾道ロケットであるV-2(技術的にはA-4とも呼ばれる)開発の中心人物だった。ペーネミュンデでの研究は砲兵・兵器としての応用を前提として進められ、試験や改良を重ねて1944年以降に実戦配備された。
- 技術的貢献:液体酸素とアルコールを用いる推進系、誘導制御、空力設計など多くの技術を確立した。
- 倫理的・人道的問題:V-2の大量生産は戦局に伴う急増需要により、ドイツ国内の工場だけでなく、鉱山跡地に移されたミッテルヴェルク(Mittelwerk)での組立てへと移行した。この生産過程では多数の強制労働者や収容所の被拘禁者が過酷な条件で働かされ、死者も多数出た。フォン・ブラウン自身の戦時中の行動と責任については、長年にわたり学術的・倫理的議論が続いている。
戦後の移動とアメリカでのキャリア
第二次世界大戦終結時、フォン・ブラウンと彼の一部の同僚はアメリカ軍に降伏し、オペレーション・ペーパークリップの一環としてアメリカに移送された。ここで彼はロケット技術の知識を提供し、米国の軍事・宇宙計画に参加することになる。
1950年代には米陸軍やヴァンデンバーグなどで弾道ミサイル・改良型ロケット(たとえばレッドストーン、ジュピター)に関わり、1958年の「エクスプローラー1号」打ち上げ(間接的に関与)や、1961年のマーキュリー計画で使用されたマーキュリー・レッドストーンなど、初期の米国宇宙開発に大きく寄与した。
NASA時代とサターンVの開発
1958年にNASAが創設されると、フォン・ブラウンはマーシャル宇宙飛行センター(Marshall Space Flight Center)でロケット開発の中心的人物となった。彼のチームは大型打ち上げ機「サターン」シリーズを設計し、特にサターンVは人類を月へ送り込むための主力ロケットとして完成した。1969年7月のアポロ11号による月面着陸は、サターンVの成功によって実現した。
またフォン・ブラウンは一般向けの啓蒙活動にも熱心で、テレビ番組や記事を通じて宇宙探査の魅力を広めた。ディズニーとの協力などで宇宙科学の普及にも貢献している。
評価と遺産
フォン・ブラウンの業績はロケット工学と有人宇宙飛行の発展に計り知れない影響を与えた。彼の設計した多くの技術は現代の打ち上げ機や推進システムの基礎となっている。
一方で、戦時中のナチス政権との関係や、V-2生産時の強制労働問題は今日も議論の的であり、単純に「英雄」や「悪人」と断じることが困難な複雑な人物像を示している。歴史家や倫理学者は、科学技術の進歩とその社会的・倫理的コストを考える際にフォン・ブラウンの事例をしばしば引用する。
晩年と死
フォン・ブラウンは1977年6月16日にアメリカで没した。彼の死後も、ロケット技術の発展や宇宙探査計画に対する彼の影響は継続して評価され続けている。多方面での成果と同時に、戦時中の関与に関する検証や議論も歴史的評価の重要な一部となっている。
主な業績(要約)
- V-2ロケットの設計と実用化(ロケット工学の先駆的成果)
- 戦後アメリカでの弾道ミサイルと初期衛星打ち上げ計画への貢献
- NASAでのサターンV開発、アポロ計画への決定的寄与
- 科学普及活動を通じた宇宙探査の理解促進

