ロバート・エドワード・リー(1807年1月19日 - 1870年10月12日)は、アメリカ陸軍の大佐。アメリカ南北戦争では、南軍の総司令官となった。アメリカ南北戦争の東部戦域で北バージニア軍を率いた。彼は、最初はエンジニアだったが、その後、ランクを上げていった。南北戦争以前、リーは米墨戦争の将校だった。また、ウェストポイントの校長も務めた。アメリカ陸軍の大佐として、海兵隊の大隊を率いてハーパーズフェリー武器庫での反乱を鎮圧し、そのリーダーであるジョン・ブラウンを捕らえた。
生い立ちと私生活
リーはバージニア州の名家に生まれ、幼少期から軍事教育を受けることが期待されていた。ウェストポイントの陸軍士官学校を卒業後、エンジニアとしての経歴を積み、軍務と家庭生活の両方で高い評価を得た。リーはメアリー・アンナ・ランドルフ・カスティス(Mary Anna Randolph Custis)と結婚し、子女をもうけた。家族や故郷バージニアへの愛着が、その後の政治的・軍事的判断に大きな影響を与えた。
軍歴と前戦争期の活動
リーは陸軍工兵として河川・要塞の建設や測量に従事し、優れた技術者として頭角を現した。米墨戦争では前線での指揮を執り、功績を認められた。戦後はウェストポイントの教官や後に校長(Superintendent)を務め、後進の教育にも力を注いだ。1859年にはハーパーズフェリー武器庫での反乱(ジョン・ブラウンの襲撃)を制圧する任務に当たり、連邦軍の部隊を指揮して事件を鎮圧した。
南北戦争での指揮
1861年、南北戦争が勃発すると、リーは個人的には合衆国の存続を支持する立場を取っていたが、最終的に出身州バージニアの離脱を受けて辞職し、南部側に加わった。以後、彼は南軍(コンフェデレート)の主力である北バージニア軍(Army of Northern Virginia)を率い、東部戦線で数々の重要戦闘を指揮した。
- 第一次・第二次ブルラン(第一次・第二次マンassas)やセブン・デイズの戦いなどで戦術的勝利を挙げ、北軍に大きな打撃を与えた。
- フレデリックスバーグやチャンセラーズヴィルでは大胆な攻勢で勝利を重ねたが、これらの勝利は戦略的に有効に活かされなかった場面もある。
- 1863年のゲティスバーグの敗北は南軍にとって転機となり、その後徐々に戦況は南軍不利に傾いていった。
リーは熟練した戦術家・指揮官として評価される一方で、物資不足や人員の劣勢、同盟国(州)間の資源配分の問題など、指揮外の要因にも悩まされた。
降伏と戦後の活動
戦況の悪化の末、1865年4月9日、リーはリッチモンド防衛を断念して南軍の主要部隊を率いて退却し、最終的にアポマトックス・コートハウス(Appomattox Court House)でユリシーズ・S・グラント将軍に降伏した。これにより事実上東部戦線での主要な南軍の戦闘は終結し、南北戦争は終息へ向かった。
戦後、リーは公職を離れたが、南北の和解と南部社会の復興に尽力した。1865年からはバージニアのワシントン大学(現在のWashington and Lee University)の学長に就任し、教育に力を注いだ。晩年は健康を害し、1870年に死去した。
評価と遺産
ロバート・E・リーはその軍事的手腕とカリスマ性により、当時および後世において非常に高い評価を受けてきた。しかし同時に、彼が南部側の指導者として奴隷制を支持する諸勢力の一員であった事実は、評価を巡る論争の中心にもなっている。現代ではリーをめぐる記念碑や名称について賛否が分かれており、歴史的評価は単純ではない。
総じて、リーは19世紀アメリカ史において重要な人物であり、その軍事的業績、政治的選択、そして戦後の行動はいまでも歴史研究や社会的議論の対象となっている。

