アレクサンダー・ボリス・デ・フェフェル・ジョンソンMPAlexander Boris de Pfeffel Johnson MP、1964年6月19日生まれ)は、イギリスの政治家、ジャーナリストである。2019年7月から2022年9月までイギリスの首相を務め、同時に2019年7月から2022年9月まで保守党の党首でもあった。下院議員としては、2001年から2008年までヘンリーの小選挙区を代表し、2015年の総選挙で当選して以来、アックスブリッジおよびサウス・ルイスリップの国会議員(MP)を務め、在任期間中に首相職や内閣ポストを歴任した。首相退任後も政界で影響力を保持したが、2023年に国会議員を辞任した。

生い立ちと学歴

ジョンソンは1964年に生まれ、イギリス系の家系に育った。名門校のイートンで学び、のちにオックスフォードのバルリオールカレッジで古典を専攻した。オックスフォード在学中は論説や学生政治に関わり、文筆活動の基礎を築いた。

ジャーナリズムと政界入り

卒業後、ジョンソンはタイムズ紙でジャーナリズムのキャリアを開始し、その後デイリー・テレグラフ紙へ移った。新聞社での活動を通じて全国的な知名度を獲得し、1999年には『スペクテーター』の編集者に就任した。2001年の総選挙で下院議員に当選して政界入りし、以後ジャーナリストと政治家の二重の顔で知られるようになった。著作も多数あり、政治的・文化的論評で影響力を持った。

ロンドン市長時代(2008–2016)

2008年のロンドン市長選挙で当選し、第2代ロンドン市長に就任した。市長としては公共交通機関の運営、サイクルハイヤー(レンタサイクル)導入、犯罪対策、オリンピック後の都市再生などを掲げ、2012年ロンドン五輪開催を市政で経験した。2016年まで市長職を務め、2015年には再び国政に専念するため市長を退任した。

国政復帰と外務長官(2015–2018)

2015年に再び下院に復帰し、2016年のEU離脱をめぐる国民投票ではBrexitを支持した。投票の結果、欧州連合(EU)離脱が決定すると、テレサ・メイが首相に就任した際、2016年7月にジョンソンは外務・英連邦担当国務長官に就任した。しかし2018年7月、メイ政権のBrexit方針に反対し、同時期に別の閣僚も辞任する中でジョンソンも内閣を去った

保守党党首と首相(2019–2022)

2019年の保守党党首選で勝利し、同年7月に首相に就任した。首相としては「Get Brexit Done(Brexitを完遂する)」を掲げ、2019年12月の総選挙で保守党は大勝して議席を伸ばした。ジョンソン政権下で英国は2020年1月31日に正式にEUを離脱し、年末にはEUとの間で貿易協定(Trade and Cooperation Agreement)を成立させた。2019年には議会の一時休会( prorogation )を巡る問題で司法が政府の行為を違法と判断するなど、憲政上の大きな論争も起きた。

パンデミック対応と論争

在任中に発生した新型コロナウイルス(COVID-19)の流行では、ロックダウンの実施や休業補償(furlough)制度の導入などで対策を進める一方、初期の対応の遅れや方針の揺れが批判を呼んだ。ジョンソン自身も感染し入院、集中治療を受けたが回復して職務に復帰した。

さらに在任中には、職員や関係者がロックダウン中に閣僚邸や官邸で開いた複数の私的な集まり(いわゆる「Partygate」)が明るみに出て大きな批判を受けた。これを受けて行政内部の調査や警察の捜査が行われ、政府の説明責任や長の説明に関する議論が続いた。これら一連の問題は政府支持の低下や与党内の不満を招き、最終的に2022年7月に多数の閣僚の連鎖辞任を引き金としてジョンソンは党首および首相の辞意を表明した。

辞任後の動き・評価

首相辞任後も政治的存在感は残ったが、在任中の説明責任や倫理をめぐる問題で追及を受けた。後年には特定の調査や委員会の報告が公表され、議会での説明や処分に関わる審査も行われた。支持者からは「強いリーダーシップでBrexitを成し遂げた」と評価される一方、批判派は「規範や説明責任を損なった」と指摘するなど、評価は大きく分かれている。

私生活

ジョンソンは私生活でも注目を集めてきた。結婚・離婚や数人の子どもをもうけたことなどが報じられている。公的な人物としての派手な言動や言葉遣い、風刺的な発言などは彼の特徴であり、英国国内外で注目と論争を呼んできた。

総括

ボリス・ジョンソンは、ジャーナリスト出身でありながら政界で急速に頭角を現し、ロンドン市長、外相、首相と主要な公職を歴任した人物である。Brexitの実現や疫病対策における政策などで大きな足跡を残す一方、規範や説明責任をめぐる問題で強い批判にも直面した。彼の政治的評価は時代や視点によって大きく異なっており、英国近年の政治史において重要な位置を占める人物である。